「肉薄すれば必ず教えてくれる」、野外劇『日輪の翼』やなぎみわインタビュー(上)

『日輪の翼』横浜公演(横浜赤レンガ倉庫イベント広場)より=2016年6月、撮影・bozzo

中上健次のロードノベル『日輪の翼』を題材に、移動舞台車(ステージトレーラー)で全国を旅する話題作『日輪の翼』が9月14日~17日、京都で上演される。本作の演出・美術を手がける、演出家で現代美術家のやなぎみわさんに単独インタビューを行った。

『日輪の翼』横浜公演(横浜赤レンガ倉庫イベント広場)より=2016年6月、撮影・bozzo

『日輪の翼』横浜公演(横浜赤レンガ倉庫イベント広場)より=2016年6月、撮影・bozzo

舞台装置は、トレーラーの荷台が舞台になるステージカー。やなぎさん自らがデザインし、台湾で製造、輸入した美術作品だ。そんな独創的な舞台トレーラーで繰り広げる野外劇『日輪の翼』は、演劇でありながら、歌、サーカス、ポールダンス、タップダンス、空中パフォーマンスなどを織り交ぜたスペクタクルなステージ。2016年6月に横浜で初演し、新宮(和歌山)、高松(香川)、大阪を巡演し、原作小説さながらに旅を続けている。それは、終わりなき旅だという。

5カ所目となる京都の公演地は、京都駅南東部の東九条エリア(河原町十条)。場所にふさわしい形で上演するために、やなぎさんは土地の歴史について、そこに暮らす人々に話を聞き、リサーチを行った。そして、この地の記憶を物語に取り込んで、京都バージョンとして脚本を書き変えた(脚本・山﨑なし)。京都公演には韓国からプンムルノリ(農楽)奏者を招へいし、またプンムルノリ演奏で地域の祭りを行っている東九条マダンの皆さんとも共演する。

2017年9月、再開発で変わりゆくこの地で、日没とともに野外劇が始まる。今この時に、ここでしか味わえない祝祭感と共に。

■ビジュアル的に格好いい 阪神高速道路「河原町十条」出口

――上演会場は「タイムズ鴨川西ランプ」。どうしてその場所を選ばれたのでしょうか?

そこは阪神高速道路「河原町十条」の出口で、バスの駐車場です。高架が巨大なスロープのように巻いていて、車がぐるっと回りながら降りてくる。それがビジュアル的に格好いいと思ったんです。これは私の演出のこだわりですが、「回る」ことをとても意識しています。ポールダンサーがスピンし、空中パフォーマーも空を旋回し、トレーラーもヘッドの牽引部分がくねる。舞台装置をトラックではなくトレーラーにしたのは、蛇が自分の尾を追いかけるようにぐるぐると蛇行できるからです。

原作小説では、おばあさんたちが「天の道、翔んで来た」と何度も言います。天の道とは高速道路のこと。この「河原町十条」出口は、まさにトレーラーが天の道から降りてきて、ふと泊まったような、そんな理想的なロケーションですね。

※こちらは『日輪の翼』公式サイトに掲載されている動画です。

※アイデアニュース有料会員(月額300円)限定部分には、人や歴史をふまえて土地の物語を紡ぐこと、公演地に路地を出現させること、やなぎさんの中上健次へのまなざしなどについて、インタビュー前半の全文と写真を掲載しています。9月2日掲載予定のインタビュー「下」では、やなぎさんから見た演劇と美術の究極の違いなどインタビューの後半の全文を掲載します。

<有料会員限定部分の小見出し>

■この地で上演する必然

■熊野のオバらと朝鮮半島の放浪芸能

■工芸と芸能。根っこの部分を知るきっかけに

■世界中、どこでも何かが解体された跡

■生きている人間に聞かず、死んだ人に聞けばいい

<日輪の翼>
【京都公演】2017年9月14日(木)~9月17日(日) 河原町十条:タイムズ鴨川西ランプ特設会場

<関連サイト>
『日輪の翼』公式ウェブサイト
http://nichirinnotsubasa.com/
『日輪の翼』野外車両演劇プロジェクトのクラウドファンディング
https://motion-gallery.net/projects/yanagi_nichirin

<関連リンク>
Miwa YANAGI やなぎみわ
http://www.yanagimiwa.net/

やなぎみわさん=撮影・米田有希

やなぎみわさん=撮影・米田有希

※ここから有料会員限定部分です。

■この地で上演する必然

――今回の公演地はどうして京都なのでしょうか?

2017年は京都で「東アジア文化都市」事業が開催され、その出展作品に選ばれたのが始まりです。『日輪の翼』は昨年から旅公演を始め、4カ所を夏の間に巡りました。私は京都に住んでいますから、今年はホームで落ち着いてクオリティを高めようと思いました。ですが、それはきっかけにすぎず、次第に分かってきたことがあります。

『日輪の翼』は行く先々で、土地と交わりながら作っていく目的があります。原作は巡礼を描いた旅物語で、住み慣れた熊野の「路地」を追われた老婆(以下「オバ」)たちが、青年の運転する冷凍トレーラーに乗って流浪の旅に出ます。道中で、オバたちは神仏に祈り、若者たちは女を漁り、性の享楽にふける。老いも若きも、その土地と交流しているんですね。土地の神々と、女性たちと。物語の中で、場所と深く交わるという目的が備わっているので、それは上演においても同じです。京都公演では一体何が起こるのかと思っていて、河原町十条のあの場所を見つけてから、この地で行う必然がはっきりしました。

■熊野のオバらと朝鮮半島の放浪芸能

――この場所は、東九条・十条にも近いエリアです。

在日の韓国や朝鮮の方々が多いエリアということで、もしかしたら夢の韓国バージョンが実現するかもしれないという期待もありました。朝鮮半島のナムサダンという放浪芸、プンムルノリ(農楽)をもっと本格的にやりたかったという願いがずっとあったのです。

原作の最後の方に、突然、朝鮮半島からやって来た楽団が、熊野から出てきたオバたちを取り囲んで踊るシーンがあります。何の脈絡もなく出てきていきなり踊って演奏して去っていくという一瞬だけの場面ですが、私はそのシーンが好きで、演劇のラストシーンに拡大して入れています。ラストは、オバたちと異国の楽団が踊り、カーニバルになります。『日輪の翼』メンバーは頑張っていますが、やはり本場の朝鮮半島のプンムルノリのエネルギーを注入したかった。

――東九条マダンの皆さんとの出会いは?

今回の上演は「東アジア文化都市」交流事業の一環ですので京都市に相談したところ、東九条マダンの事務局長の渡辺毅さんや、マダンの皆さんをご紹介いただいて、そこで初めて東九条の在日の方々との交流が始まりました。この出会いは大きかったですね。

マダンとは広場の意味。東九条マダンとは、民族や国籍、障害の有無などの違いを認め合い、つながる場として地域の祭りを開催する目的で始まった組織です。毎年秋に開催されている祭りでは皆で朝鮮半島のプンムルノリを演奏しています。日本国籍でも入ることができて、日本に数少ない画期的な取り組みだと思います。東九条マダンは、韓国民主化運動の流れを汲んだ人たちが1993年に始めたそうです。事務局長の渡辺さんは日本国籍の方。元演劇人で、文学や芸術に理解があり、オープンで、その方を紹介していただいてから京都公演に向けて開けてきました。

――韓国からの招へいアーティストの参加も京都公演ならではでしょうか。

そうです。韓国から来る二人はプンムルノリのプロフェッショナル。自分たちでマダンを作り長く続けてこられた在日の方々と、『日輪の翼』メンバー。三者が出会う形にしようと決めました。同時に京都の歴史、路地の歴史を、物語の中に入れたいと思い、脚本も今回、オバたちが京都を訪ねるという設定に変えています。

――脚本も変わるのですか。

将来もし、東北で公演ができたら東北バージョン、台湾でやるなら台湾バージョンになります。

『日輪の翼』横浜公演(横浜赤レンガ倉庫イベント広場)より=2016年6月、撮影・bozzo

『日輪の翼』横浜公演(横浜赤レンガ倉庫イベント広場)より=2016年6月、撮影・bozzo

■工芸と芸能。根っこの部分を知るきっかけに

――京都公演にあたって、物語と土地の交わりはどのように見えてきましたか?

リサーチする中で、私も知らなかったことがたくさんありました。東九条には在日の韓国・朝鮮人がたくさんいますが、京都全体に在日の方々が多くて、朝鮮半島とのつながりは非常に強いです。西陣や壬生の辺りの染織産業を大きく担ったのは、在日の方々です。芸能や工芸も部落産業として在日の方々が多く、根幹を担ってきました。

アジア全体がそうですが、特に日本は、工芸と芸能の国。その工芸や芸能は、ヒエラルキー(階層構造)を作る。ヒエラルキーというのは差別を含んでいる。本来は差別ではなく「差異」なんですね。例えば書画にしても、描く人は有名な芸術家として認められても、画材や、筆や、にかわ作りなど、ベースとなるメディウム産業を誰が担ってきたのか。演奏者と楽器作りの関係も同じです。今回は、そんな根っこの部分を知るきっかけにもなりましたね。

――京都の根っこの部分。

京都は奥深いです。私は大学の時は染織工芸が専門でしたが、その時は実情を分かっていませんでした。壬生の型友禅の老舗でアルバイトをしていた時、店と奥があって、表の方は立派な数寄屋造りで奇麗にしてあるのですが、奥の工場と呼ばれる所はまるで戦前世界のようなバラックで、暗くて冷暖房も無く、皆さん水仕事を辛そうにしていたのは覚えています。表で描いた図案が奥に送られて、反物として上がってくるまでに、幾つもの下請けの分業があります。京友禅は元々、そんな風に出来ていて、西陣織もそうだったと思います。しかし、過酷な下請け労働を誰が担ってきたかは、あまり知られていない。それから大量生産で作るような染色工場が、東九条の方にたくさん出来て、その中で一番大きかった工場が、私たちが公演する阪神高速の出口にあったそうです。今は駐車場となって跡形もありませんが。

■世界中、どこでも何かが解体された跡

――『日輪の翼』の旅公演を通して土地と交わることは、土地の根幹に触れることにも通じるのでしょうか。

世界中、どこでも何かが解体された跡です。壊されて何かが作られ、また壊されての繰り返し。典型的なのが、路地が壊されて道路になった例で、中上健次はそのことをとても意識していたと思います。中上が生まれ育った新宮はかつて、臥龍山によって城下町と部落のほうに隔てられていました。それが、市の開発事業で山ごと取り払い、土地が平らに広がったことで差別されている地域が目に見えなくなった。一見いいことのようですが、同時に土地の歴史も失われた。特に部落差別がなかったことにされ、そこにあった暮らしも、物語もなくなっていく時期に、宿命的に現れた作家が中上です。

京都はその最たるもので、多くの路地があるわけです。京都は一つの世界的な観光都市の顔があって、千年以上もの間、天皇がいた都というブランド意識が高い。上があるということは下もあり、そこに階層構造ができる。今も被差別部落の問題は解決したわけではないですから。

――『日輪の翼』を上演するということは、なかったことにしない、という抵抗になるのでしょうか。

中上健次がそうさせてくれたと思いますよ。中上は、京都はあまり好きではなかったのではないかと思います。京都のことは直接的にはほとんど書いていないですから。都という「中心」に対して常に抵抗感があったのだと思います。しかし、今敢えて上演するのに、京都はしかるべき場所だと思いますね。今回公演を行う場所は、すぐそこは鴨川。今は高速道路が作られ、街並みが一掃されましたが、かつては川沿いにバラック家屋が立ち並び、染色工場や京都の様々なインフラ整備に関わる肉体労働に従事した多くの人々が暮らしていた場所です。

――その界隈は現在も整備計画が進み、更に様変わりしていきそうです。

原作で、オバらは熊野の路地からの立ち退きを迫られて流浪の旅に出ます。そんなオバらの出自と、京都のこの地の符合が合いました。他にも候補地はあったのですが、この地でやることの必然を感じましたね。昨年の公演地は、港近くの造成地などだったので、歴史を抱いた上演地は今回が初めてです。

『日輪の翼』横浜公演(横浜赤レンガ倉庫イベント広場)より=2016年6月、撮影・bozzo

『日輪の翼』横浜公演(横浜赤レンガ倉庫イベント広場)より=2016年6月、撮影・bozzo

■生きている人間に聞かず、死んだ人に聞けばいい

――この地を上演に選ばれたのは、中上健次さんがそうさせてくれたという意識の方が強いですか、やなぎさんご自身の根幹にある表現することと重なり合う部分は?

それは両方ですね。私いつもね、若い作家や学生から相談された時に言うんです。「生きている人間に聞かず、死んだ人に聞いた方がいい」と。

――死んだ人に聞く。

生きている人間は適当に何でも言えますから、気軽に聞かないほうがいい。死んだ人間に聞こうと思ったら、肉薄しないと教えてくれない。それは文学でも美術でも何でもそうですが、その作家に迫らないと、相手の声は聞こえてこない。

中上健次は46歳の若さで他界しましたが、凄まじい文章量を書いています。しかも血肉のような文体。ですから、その言葉を借りて公演するということは、こちらも相当のことをしないといけない。それは、中上にとことん迫っていき、対話しながら創り上げていくこと。もちろんそれは舞台では演者が体現するのですが、死んだ人との間は、私が仲立ちしてやっています。先日(8月5日)も熊野に行き、墓前に京都公演の台本を供えてきました。中上健次に新しい脚本を見せて、これで良いでしょうかと尋ねてきました。自分なりに確信がありましたから持って行けました。

中上健次に限らず、教えてほしいというところまで肉薄すれば、必ず教えてくれる。文学も芸術も美術も音楽も同様で、作品というのは万人に向けて開かれている。それはとても豊かなことだと思います。会ったこともない相手と、言語が違う外国の作家であろうと、昔の偉人であろうと、作品を介してやりとりできる。人間にだけ出来ることだと思います。

『日輪の翼』横浜公演(横浜赤レンガ倉庫イベント広場)より=2016年6月、撮影・bozzo

『日輪の翼』横浜公演(横浜赤レンガ倉庫イベント広場)より=2016年6月、撮影・bozzo

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