映画「抱擁」の坂口監督、「絶望のなかで出会うものにこそ豊かな学びがある」

「母ちゃん、淋しかっちゅう事は、どういう事だ?」

「一人で生きるっちゅうのは淋しいよ」

鹿児島県種子島出身の坂口香津美監督が、母の介護の4年間の日々を記録したドキュメンタリー映画「抱擁」が、東京での7週間のロングラン上映を経て、大阪のシネ・ヌーヴォで公開中だ(7月10日まで。以降、名古屋、鹿児島、全国順次公開予定)。大阪上映初日、東京から来阪した坂口監督に単独インタビューを行い、ファインダー越しに見えてきた母の変化や、「絶望のなかで出会うものにこそ豊かな学びの場がある」と語る監督の想いなどについて、語ってもらった。

【映画『抱擁』予告編動画】

坂口監督はこれまで、家族や思春期の若者をおもなテーマに200本以上のテレビドキュメンタリーを制作、4本の劇映画と本作を含む2本のドキュメンタリー映画を監督した。映画ではひきこもり、少年犯罪、性犯罪被害者、長崎の被爆高齢者など社会的なテーマに取り組み、そこで葛藤し苦しみながらもひたむきに生きようとする人の姿を独自の視点で描いてきた。本作品では悲嘆し、老いが深まる母が、故郷で再び笑顔を取り戻すまでの4年間をカメラで寄り添った。しかし、初めから映画を作ろうと思って母を撮影していたわけではない。

「母ちゃんが一日に何度も救急車を呼ぶ」。2008年3月、当時84歳の父、諭さんから疲れきった声で電話がかかってきた。かけつけると、「救急車を呼んで!」と叫ぶ母。部屋には精神安定剤が散乱していた。母、すちえさん(84)は、2年前に長女をがんで失い、「薬を飲めばさみしくないから」と安定剤が手離せなくなっていた。情緒不安定な母の介護に突然直面することになった坂口さんは、東京都内の一人暮らしのアパートを引き払い、両親の住む埼玉県内の団地の別棟に引っ越した。

坂口さんの両親は種子島の南端、南種子町で農家を営んでいた。島の人々は高度経済成長の波に乗って、東京や大阪へ出稼ぎに行った。1971年、坂口監督の両親も貧しい生活から逃れるように田畑や家を売り払い、借金を返済し、少しのお金を手元に東京をめざした。「年金を払い終わるまでは、歯を食いしばってでも力を合わせて働こう」と父は工場勤務、母は社員食堂のまかない、2人でビル清掃の仕事などに励んだ。いつか種子島に帰って老後を暮らすことが、夫婦の切なる願いだった。

ようやくつかんだ年金生活、しかし、まもなく父が脳梗塞で入院することになり、母と息子の二人暮らしが始まった。仕事に行こうとすると母は息子の足をつかんで「行かないで」「さびしいから」と訴えた。「長女を失った後の悲しみは、母の心の奥深くまで根を下ろしていました。僕はそれまで、長女を亡くした精神の後遺症、母が抱える悲嘆に対して無頓着だったんです」。その日、後ろ髪を引かれる思いで仕事に向かうも、置いてきた母の様子が気になり引き返した。「部屋に戻ってビデオカメラをいじっていると、ファインダーに映る母の姿が小さく、悲しく、哀れで、愛おしく思えました。ふいに泣きたくなってきて、気がついたら録画ボタンを押していました」。そうしてカメラが回り始める。

ある日、母は息子を責めるように、懇願するように言った。「香津美、私を撃ち殺していいよ」。すちえさんは、初期の「老人性うつ」、「パニック障害」、「不安神経症」と診断された。いくつもの心療内科や精神科をまわったが、医者によって個々に診断の結果が微妙に違う。母にとってより良い薬とは何かが判然としない。家族それぞれが日々、不安と闘いながら生きていた。入院して5 カ月後、父、諭さんが息を引き取った。肺炎だった。その頃、すちえさんは「アルツハイマー型認知症」と診断され、夜中に部屋を出て徘徊するようになっていた。その度に、息子は母を捜して、団地の周辺をさまよった。「僕自身も次第にノイローゼ気味になり、自分は一体何をやっているのだろう、僕たち家族が東京に出てきたことの結末がこうなのかと思い、自暴自棄になり、絶望しかけていました」。しかし、ビデオカメラを回しているとき坂口さんは、ファインダーを通して母と一定の距離を保つことができ、かろうじて冷静さを取り戻すことができた。

転機が訪れたのは、すちえさんの妹、宮園マリ子さん(79)が諭さんの葬儀に出るために上京したとき、姉の姿を見て「ふるさとに連れて帰ろう」と言った。肉親ゆえの愛情に満ちた提案に、2人はすがりついた。すちえさんにとっては38年ぶりの帰郷、種子島での暮らしとなった。

(C)SUPERSAURUS

(C)SUPERSAURUS

マリ子さんは一人暮らしの自宅に姉を住まわせた。自宅のリビングで、姉にケーキを食べさせるシーンがある。マリ子さんにすすめられ、一口、また一口と口に運ぶうちに、初めは険しかったすちえさんの表情が、次第に緩んでいく。そして、ぽつりと言った。「ようなったみたい(体調が良くなったみたい)」。そんな姉の様子に、隣にいたマリ子さんは大笑い。すちえさんも笑う。ぴんと張りつめていたものが、すっとほどけた。「安定剤なんて飲んでる場合じゃないよ。姉さん、ここでは具合が悪くても、ものを食べて、人と交わって、笑って、そうすれば頭がすっきりとなるよ」とマリ子さんは語りかけた。

後にマリ子さんは、東京、シアター・イメージフォーラムで行われた上映の舞台あいさつで、こう話している。「6年前、姉を兄妹や親戚の住む種子島に連れて帰りました。風呂に入り背中を流したとき、あまりに小さくなった姉の背中を見てびっくりしました。そのときから(子どもの頃)母がしてくれたことを(今度は)私が姉にしなければと思い、種子島のトビウオなどの白身魚と野菜をたっぷり入れた味噌汁をいっぱい食べさせました。にわとりのスープも毎日飲ませました。休みの日には、手作りの弁当を持って海に行き、浜辺に座って昔を思い出し、二人で楽しく泣いたり笑ったりしています」

すちえさんが精神的に混乱する頻度は段々と低くなり、約3年かけて穏やかな時間を取り戻していった。ゆっくりとしたその歩みに、カメラも静かに寄り添っていく。「母と僕は故郷・種子島に絶望からの出口を求めました。そこで心の原郷に出会ったのです。人間は、その人にしかない時間の層を持っています。母は故郷の風土に抱かれることで、自分の最も深いところにあるその層、人間の根幹の部分に触れ、少女時代の生き生きとした歓びを思い起こしたのではないでしょうか。種子島にしかない風のにおい、土のぬくもりがありますから」と坂口監督は目を細めた。

「映画を観てくださった方からよく言われます。『妹(マリ子)さんの存在が大きいですね』と。そのとおりですが、じつは母もおば(マリ子さん)のことを救っている、とも僕は見ています。それは、おばも楽しそうだから。おばは母の浣腸までやっている。おしりの穴に指を入れて便を引き出し、便が出たら2人で喜んでいる。その光景に僕は驚き、これは何だろうと思いました。もしかして、おばも大切なものに出会っているのではないか。それは他者を良くしていく喜び。自分には人を良くできる力があると無意識のうちに気付く。それは何ものにも代え難い喜びで、尊い力。おばが母を抱きしめているとき、おばもまた、母に抱きしめられている。その姿を目のあたりにして『抱擁』というタイトルをつけました」。

2015年4月、東京での公開時、すちえさんとマリ子さんは種子島から上京し、客席で「抱擁」を観た。「苦しむ自分の姿をスクリーンで見ることで、母がまた混乱しないだろうか」と坂口監督は心配し、いつでも外に連れ出せるように母を最後列に座らせた。しかし、すちえさんは最後まで見て「おもしろい」とひと言、感想をもらし、「風呂に入ってる場面は恥ずかしい」と頬を染めた。「そんな母の姿に、言葉に僕は救われました」と坂口監督。「おそらく母は、当時の自分を客観視できたのだと思います。スクリーンの中にいるのは過去の自分で、今の自分はそこにいない。過ぎ去ったこととして捉えられるほど、精神が安定したからではないでしょうか」。

(C)SUPERSAURUS

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子どもの親の老後に対する不安。「観客と話をすると、母が認知症でどうしたらいいかわからない、という当時の僕の状況にいる人が多い」と坂口監督は実感している。「それまで僕自身、親の老後は遠い将来のことだと無意識のうちに遠ざけていました。しかし、その日は突然やって来た。それまでは一人で生活することの自由を享受していたので当初、抵抗がありました。親のために何かしなければと思いつつも、一人で自由に生きたいとの我欲を隠すことはできない。母はそんな僕の心を見抜いたように『私を撃ち殺していいよ』と言いました。そのときは母に反発しました。自分がそれを受け入れたくないから、それ以上考えるのが怖かったんです。僕は、母の深い孤独を埋めるにはあまりに非力だ。その状況から、葛藤から逃げようとし、精神安定剤を与えることしかできなかった。すると彼女は益々苦しむ。当時は、出口の見えないトンネルの中にいるようでした」。

逃げないことの意味を教えてくれたのも、また母だった。「初め僕は、母の混乱した状態を他の人に悟られたくないと思っていました。しかし母は僕が不在のとき、同じ団地の人のドアを叩き、『苦しいんです、助けてください』と助けを求めていたんです。母の場合はSOSを無邪気に露わにした。すると周りの人も気にかけてくれるようになっていきました」。

親の介護で大切なことは、「逃げないこと」だと坂口監督は言う。それは、自分たちのつらい状況を内に秘めずに外に向かって出すことだという。「つらさを隠しているのが一番良くない。僕自身も追いつめられて役所に相談したところ、母の介護認定を受け、ヘルパーの方に自宅に来てもらうことができました。母と僕は社会と関わることで、孤立から免れた。そうしなければ、母の人生はそこで終わっていたかもしれない。社会と関わることで、新しい人生の歯車が回り始めた。その先に、母の種子島での豊かな人生が現れたのです。絶望は終わりじゃなかった。むしろ絶望の中で出会うものにこそ豊かな学びの場がある、と僕は母の姿を見て理解しました」。

映画を作り終えて2年。すちえさんは「さみしい」と口にすることはあっても、「私を撃ち殺して……」とは言わなくなった。もし、またそう言われたら、今の坂口監督だったら、どうするだろうか。「まずは受け止めると思います。どうして母がそう思うのか、彼女には言わず、自分に問いかけます。母にそのようなことを言わせたのは僕であり、僕自身が試されていると考えます」。

坂口香津美監督=撮影・桝郷春美

坂口香津美監督=撮影・桝郷春美

実母の介護という極私的な記録を収めた「抱擁」は、父が息を引き取るその瞬間や、母がお風呂に入るシーンも映している。プライベートを見せることに対して、坂口監督は「そこまで踏み込んで伝えなければ本物じゃないと思った」と即答し、母の裸のシーンに対しては、こう話した。「人の心は見えませんが、肉体は目に見える。息子が母の裸を映すのは奇妙な感じがするかもしれませんが、血肉を分けた息子だからこそ描ける世界がある。僕は年老いた母の肉体を、立ち振る舞いを美しいと思いましたし、たとえ足腰が立たなくなっても母に自分の肉体に誇りを持ってほしいと思ったのです。肉体は、どんなに衰えても恥ずべきことではない。母が自分の体を撃ち殺してもいい、というようなものであってはならない。生まれてから今まで母に抱きしめられてきた僕は、同時にかけがえのない母を抱きしめられる存在でありたい。精神的に混乱する母を受け入れることができずに苦しみ、葛藤するかつての僕のようにはなりたくない」。

6月13日、大阪シネ・ヌーヴォの上映初日には、関西在住の種子島出身者が20人ほど観に来ていた。上映中は泣いたり笑ったり場内の空気が揺れ動き、終わるころには南風のような温かさがそこにはあった。上映後も余韻は残った。ある人は郷里のことを力強く語り、ある人は主人公のすちえさんや妹のマリ子さんのことをしみじみと話す。一人の女性から、こんな感想を聞いた。「20歳から大阪の阿倍野に住んで、今年80歳になります。現在の種子島のシーンでは、景色が変わり場所がわからなくなって(自分が)浦島太郎みたいに思えました。夫婦の若い頃の回想シーンでは昔の苦労と重なって、ヒクヒク泣きました。そして、笑いました。(すちえさんのように、受け入れてくれる妹さんがいて)田舎に帰って交流を持つのはいいことですね。私らは帰れないけれど。すちえさんの姿は、人間本来の姿。なつかしいです」と名残惜しそうにしていた。映画には、子ガメを海に放つシーンや、ロケット発射、サトウキビ畑、それにピーナツ豆腐や、木の若葉を入れたみそ汁などの郷土料理など、種子島の情景が多く出てくる。

「母の老いに寄り添った4年間、私が学んだ最も大切なことは、人間は一人では生きていけない、と同時に、孤独ではないということです。人は誰かとともに生きている社会的な存在。そのためには、孤立してはいけない。自分の方から部屋のドアを開けて、外の社会と関わる。と同時に自分の内なる心のドアを開けて、心の中にあるふるさとと出会う。それは子どもの頃のなつかしい思い出や方言、愛唱歌、幼少の頃から親しんだ食べ物、生まれ育った大地のにおいなど、必ずしもそこに行かなくても自分の中にある心の原郷を意識すること。すると、そこには予期せぬ大切な何かが待ち受けている。その大切な何かと出会うことこそが老いを生きる喜びなのだ、と母の姿を通して知りました」。現在60歳、独身の坂口監督。「これまでの一人で生きる人生から、そろそろ誰かのために生きる人生になれたら」と思っている。

映画「抱擁」公式ウェブサイトはこちら → http://www.houyomovie.com/

映画「抱擁」のチケットプレゼントはこちら → https://ideanews.jp/backup/archives/4696

    • ◆上映スケジュール
    • シネ・ヌーヴォ(大阪)
      上映中 7/3(金)まで10:20
      7/4(土)~シネ・ヌーヴォXにて上映
      7/4(土)~7/10(金)13:30
      ※日曜日は英語字幕入り上映となります
      http://www.cinenouveau.com/
    • 7月25日(土)~31日(金)名古屋シネマテーク(愛知)
      10:40
      http://cineaste.jp/
  • ほか全国順次公開予定

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アイデアニュース有料会員向け【おまけ】

坂口監督が母に寄り添った6年間、介護体験から知り得た母を再生させた10の項目があります。それらを監督自身による解説と共に紹介します。(スーパーサウルス提供)

母を再生させた10の言葉

2008年から2014年にかけて、母に寄り添った6年間、僕が知り得た母を再生させた「10項目」を下記に列挙した。一見、平易な内容であるが、母はこれを複合的に無意識に日常的に実践していたように思う。ここれらが血肉となり、精神の糧となり、今や驚くほどの心身の健康と快復を取り戻し、齢84歳の今をたくましく生きている。今日も映画のラストシーンのように、妹と二人で島の大地を踏みしめて。

1.一人の信頼できる友を持つ

家族や身内に限らない。一人の信頼できる友を持つことは何より重要だ。母は妹(僕にとっては叔母)の献身的な介護によって生き直すことができたが、その姉妹愛の根幹は第二次大戦の戦中戦後、貧しいながらも助け合った家族の力が原点にある。長女の母は病気がちで体の弱かった妹や弟たちを背負って農作業や家事など肉体労働をしして一家を支えた姉は、70年後、その妹に今度は背負われるのである。同時に、母は隣人はじめ、多くの人々にも支えられた。映画には登場しないが、団地の隣室の女性は母の精神の混乱に際し、慈愛の精神でもって接してくれた。種子島に戻ってからも、隣り近所の方々、デイサービスで出会う高齢者など多くの人々が母の精神を気遣い、力になってくれた。人は一人では生きられない、晩年は尚更であることを母の介護を通じて学んだと思う。

2.他者を部屋に招き入れる

家族だけでは限界がある。隣人、友人、介護ヘルパー、信頼できる他者を進んで部屋に招き入れることで孤立(孤立死)を免れることができる。

3.一日の出来事をノートに書く

母はその日の心身の状態や日常で起こったことを数行程度、大学ノートに書き記した。「日記帳」とタイトルをつけて。それが母の欠かせない日課だった。

4.一日一食、手作りの料理を作る

料理を作ることは命をつなぐこと。生きることをあきらめないことにつながる。

5.ペットを飼い、花を育てる

ペットを飼えない環境なら花を育てる。生命のあるものを生活に取り入れる。

6.人の輪の中に入り交流する

意識的に、定期的に、人の輪のなかに入り、会話を楽しむ。母にとってそれは親戚との集まりやデイサービスで特別養護老人ホームに通うこと。

7.ふるさとに一度は帰る

母は郷里の妹の庭に、東京で夫婦で肉体労働をして得た貯金をはたいて小さな家を建てた。自力で家を建てたというその小さな誇りが、また土地の力が母に生きる活力を与えたように思う。老後に差し掛かったら、自分のルーツと向き合うこと、ルーツとなる場所を訪ねることは生き直しにつながる。

8.ユーモアを忘れない

ユーモアは老いの孤独、さびしさを一瞬でもいやしてくれる効果がある。ユーモアを忘れない心に人は集まる。

9.自分を励ます愛唱歌を持つ

つらいとき、哀しいとき、くちずさむ歌が勇気を与える。映画の最後、母は自身の愛唱歌を口ずさんでいる。

10.愛する人のために生きる

つましい生活のなかで父は母を愛した。その一部は何枚もの母をモデルにした絵になって残された。母も父を愛したが、父が亡くなってから「愛し方が足りなかった」と悔いる言葉を何度もつぶやいた。母の愛は同時に息子の私に、そして今、自分のために献身的な介護を続けてくれる妹に注がれている。息子に、妹に愛をそそぐ心が母を生かしている。

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