2017年7月に世田谷パブリックシアター開場20周年記念公演として『子午線の祀り』が上演されます。『平家物語』を題材として、木下順二が書いた日本の演劇史上に残る壮大なスケールの叙事詩劇。昨年10月に行われたリーディング公演を経て、過去2回平知盛を演じた、芸術監督 野村萬斎さんによる新演出・新キャストで新たな幕が上がります。この公演に九郎判官義経(源義経)役で出演される成河さんにお話を伺いました。
■ちょっとずつですけど、その恐ろしさがようやく日々わかってくる(笑)
――今回ご出演される『子午線の祀り』は、1979年の初演以来これまでにも度々上演されて、宇野重吉さんや観世榮夫さんというそうそうたる方々が演出してこられた作品ですね。
やめてください、もうヤメテクダサイ(笑)…現実ですね。受け入れないと。はい、光栄な事です、本当に。
――オファーを受けられていかがでしたか?
だいぶ前、企画が立ち上がる頃に、野村萬斎さんから戴いたお話だったんです。キャストも含めて、どういう形でやるかもわからない時に、真っ先にお声をかけていただいて。萬斎さんは、『春琴』(2008年、2009年、2010年、2013年 Simon McBurney演出 世田谷パブリックシアター)のときから世田谷パブリックシアターの芸術監督でいらっしゃいましたから、お世話になってました。当時ロンドンでも稽古があったのですが、そこに萬斎さんがいらっしゃって、一緒にお食事したり。萬斎さんもすごくサイモンが好きで、いろんなお話をしましたね。『子午線の祀り』のお話があったのは2年くらい前です。僕は作品について何も知らなかったので、とにかく資料を戴いたり、映像を戴いたりして、そこから少しずつ『子午線の祀り』という作品の歴史みたいなものを、僕なりにちょっとずつですけど理解していき、その恐ろしさがようやく日々わかってくるというか(笑)。今は恐怖のどん底に居ますけど(笑)。
■つかこうへいさん、野田秀樹さん、平田オリザさんと、異なる世代を追いかけながら「演劇って?」
――ご自身のブログでも「ダントツに高い山」と表現されていらっしゃいましたね。
僕は現代演劇っていう範疇のいろんなジャンルといいますか、いろんな様式のものに興味がありまして。学生時代を振り返ると、東大のサークルで演劇をやっていた僕たちにとっての頂点は野田秀樹さんでしたけど、ちょうど平田オリザさんが出てきた頃でもありました。僕は、サークルを卒業して、一度つかこうへいさんの劇団に入りましたし、ですから、つかさん、野田秀樹さん、平田オリザさんっていう、異なる世代の演劇人を追いかけながら「演劇って何だろう?」って考えていたんです。更に唐十郎さんにまでさかのぼったり、「大人計画」の松尾スズキさんを追っかけてみたり。さらに岩松了さんともお仕事をして、“平田さんの「静かな演劇」と岩松了さん、ドコで繋がって何が違うんだ?”みたいな(笑)。とにかく、そういうことを考えるのがすごく好きで。かと思えば、宮城聰さん、鈴木忠志さんの非常に様式的な、日本の古典的な身体を駆使したような演劇にも惹かれたり。とにかくいろんな様式のものを手当たり次第漁っていったんです、全部好きだったので(笑)。自分が舞台に立てるようになってからも、なるべくいろんな種類のものを観ていました。ひとつにこだわって、ずっとこれがやりたいって思ったことはあんまり無くて。「きっと“同じ演劇”な筈だから」と思っています。ま、実際のところは、すごくリアリズム志向の会話劇よりは、どっちかというと様式的な方が演る方としては好きではありましたね。
※アイデアニュース有料会員(月額300円)限定部分には、演劇の様式と言葉の様式などについて掘り下げて語ってくださった成河さんのインタビューの全文を掲載しています。4月21日掲載予定のインタビューの「下」では、商業的な成功は必要だけれどその中で自分が携わった意味をどうしても探してしまうというお話など、インタビューの後半の内容を紹介します。
<有料会員限定部分の小見出し>
■「演劇」の様式の違いって、要するに「言葉」の様式の違いなんですよ
■台本の言葉を立ち上げるために、最も適した身体を探していく
■日本語の本領発揮の領分。じゃ、これ英語にしてご覧なさいよ、って
■シェイクスピアも、翻訳しようとすると余白が表現出来ないから困る
<世田谷パブリックシアター開場20周年記念公演『子午線の祀り』>
【東京公演】2017年7月1日(土)~7月23日(日) 世田谷パブリックシアター
【作】木下順二 【演出】野村萬斎 【音楽】武満徹 【出演】野村萬斎、成河、河原崎國太郎、今井朋彦、村田雄浩、若村麻由美ほか
<物語>
歴史上名高い源平の合戦。次第に平家の旗色は悪くなるばかり。兄宗盛に代わり平家軍を指揮する平知盛(野村萬斎)は、一ノ谷の合戦で源義経(成河)の奇襲を受け、海へ追い落とされる。以来、武将となってはじめて自分に疑いをもちつつ、知盛は舞姫・影身の内侍(若村麻由美)を和平のため京へ遣わそうとするが……。
<関連サイト>
『子午線の祀り』(世田谷パブリックシアター・ニュース) https://setagaya-pt.jp/news/201707shigosen_cast.html
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■「演劇」の様式の違いって、要するに「言葉」の様式の違いなんですよ
――様式的な方が演りやすい。
それは今もですね。観るのは大好きなんですよ! 平田オリザさんのお芝居をずーっと観てきましたし、その後の世代で言うと、三浦大輔さんの「ポツドール」もすごく好きだったり。スーパーリアリズム、と言いますか、現代口語をさらに尖らせていったようなものもすごく好きで。ですが演る側としては、どうしても様式的な方に引っ張られる。日常生活からかけ離れたような、日常生活では有り得ないようなものを表現する方が、理屈じゃなく好きなんでしょうね。
――そういう意味では、今回の作品はまさに様式的ですね。
最近気付いたんですけど、この『子午線の祀り』って「源流」なんだと思います。つかさんであったり、野田さんであったり、唐さん、鈴木忠志さんとか、そういう方々が創ってきたもの、語られてきた言葉、そういうものの「源流」と言って過言ではないものだと思うんです。この作品の文体、日本語の「古文」というものを立ち上げるための伝統的な様式に今こうして出会って、僕の世代で観て面白かったものの源流をどんどん辿っていっているんだなって気がします。
――たしかに!
考えてたんですけど、「演劇」の様式の違いって、要するに「言葉」の様式の違いなんですよね。「日本語の様式の違い」だけでも、もう身体が違う。言葉が変わるから身体が変わって、内容は同じことを言っていても、それをどういう言葉で表現するかで様式がぜんぜん変わるっていうことなんだなぁって。
――例えると、現代の日常会話で使う「口語」と「文語」の差ということでしょうか?
そうですね、現代口語と文語の差、大別するとそこに差が出てくると思います。さらに、いわゆる近代の海外の戯曲を日本語に翻訳したときには、すごく独特な様式が出てきますし。唐さんや野田さんが紡ぐ「詩的」な言語っていうものも、この現代演劇の中で発明された訳で、そこで生まれた独特な日本語の形式っていうのもありますよね。井上ひさしさんの「むずかしいことをやさしく」語っていく日本語もある。そういういろんな日本語の様式と、その都度出会っていって、いつもそれがすごく面白かったんです。で、その日本語のカタチっていうのが、つまり演技のカタチを決めていくんです。これを喋るためには、こういう演り方じゃなきゃ絶対喋れないよ、っていう言葉なんですよね。
■台本の言葉を立ち上げるために、最も適した身体を探していく
――やっぱり引きずられてしまいますか? 話し言葉に。
引きずられるといいますか、まず現場には台本があるじゃないですか。その言葉を立ち上げるために、最も適した身体、「この言葉はこの演技でしか有り得ない」っていうものを探していくんです。それは三浦大輔さんや、平田オリザさん、野田秀樹さんにしたって、彼らが書いた言葉に対してどういう演技が一番伝わるのかと探していくことは、「古文」と向き合っているときの姿勢と変わらないですよね。古文をすごく現代的に解釈したとしても、喋る言葉はやっぱり「古文」じゃないですか。その「古文」の内容をいかにして伝えるか?っていう葛藤に、「伝統様式の中に絶対にヒントがある」っていうことを、野村萬斎さんから幾度となく教わっています。何度か台本読みをさせていただいたんですけれども、萬斎さんはとても印象的なことをおっしゃっていたんです。「決して型に囚われる必要はない、むしろいろんな実験、いろんな読み方をしてみて欲しい」って。ただ、今までの上演の際にも稽古でいろんな実験をして、その都度検証もしてきたそうなんですけれど、結局わからないこともあるそうなんですよ。わからなかったり、ついていけなかったりする。やっぱり、「古文」の持っている「強度」というものがその位あって。この「古文」をいかに語るべきかということを、萬斎さんご自身はすごく開かれた状態で、「あくまでも伝統様式をヒントにしながら、自由に探していってくれ」ということをおっしゃっていましたが、ただ遠回りもしながら、なんだかんだで「いつも還ってきちゃうんだけどね」、みたいな(笑)。それだけ、その「古文を語る様式」っていうのは練り尽くされたものでしょうし、そこを簡単に無視する気は、僕には無かったりするので。
――狂言などの古典芸能は「古文」で上演されていますが、「古文」に精通していなくて台詞のこと細かい内容は多少覚束なくても、舞台上の人物の所作や台詞回しなどで、その喜怒哀楽はちゃんと客席に伝わりますね。お話を聞いていて、それが「古文を語る様式」というものなのかなと感じました。
やっぱりすごく美しい言葉なんだなっていうのを再発見しますよね。
■日本語の本領発揮の領分。じゃ、これ英語にしてご覧なさいよ、って
――「古文」で書かれた「平家物語」、またそれを基にした『子午線の祀り』の言葉は、響きも綺麗、流れも綺麗ですよね。
ええ。木下順二さんが書かれた戯曲や、元々の「平家物語」の原文を理解しようと試みている中で、現代演劇のいろんな戯曲をやってきた身としては、つかさんの言葉だったり、唐さんの言葉、鈴木忠志さんの言葉だったりが、理解していく「補助線」になっていくんです。それで少しずつ読み解けていくんですけど。また言葉ということでいうと、僕は翻訳劇を演らせていただくことも多いので、翻訳劇の言葉についてもよく考えるんですが、例えば、西洋の言葉と、ある種格闘している作品があるとして、それは西洋演劇をどのように日本語で立ち上げようか?っていうことをやってるんだと思うんです。でも言ってしまえば、シェイクスピアなんて日本語にするのは基本的には不可能なんですよ(笑)。でもそういうところでひとまず闘ってみたんですけど(笑)、という格闘の成果を皆さまにお見せしているという。対してこの『子午線の祀り』という作品は、日本語の本領発揮の領分、と言うのでしょうか。じゃ、これ英語にしてご覧なさいよ、っていったときに、絶対不可能な部分というか。その“日本語の持つ美しさ”っていうと、あんまりにも簡単すぎてアレなんですけど、日本語のものすごく硬質な「書き言葉」というのは、“省略された言葉”というか、“余白のある言葉”なんだなと思うんですよね。
■シェイクスピアも、翻訳しようとすると余白が表現出来ないから困る
――余白のある言葉…。
やっぱり、シェイクスピアを原語で読んでも“余白のある言葉”なんですよ。それを「翻訳」しようとすると、その「余白」が表現出来ないから、翻訳って難しいですよね。
――「余白」の部分は、いちいち言葉に書き起こさないと「英語文化圏」ではない日本人には伝わらないから…
出来ないんですよね。
――だから、ダーッと上から下まで余白なしで喋っているという、あの翻訳劇独特の感じに…、
そうですよね。結局翻訳劇ってそういう「余白」を表現しきれずに、それを補う形で闘うしかなくなっていく。ただ、日本語を突き詰めていった余白の表現っていうのは、やっぱりここに「在る」んですよ、っていうのを改めて教わった気がして。「あー、先にこれやっとかないと何も喋れないよね」っていうことを自分は感じますし、これが「源流」だなぁという風に思っています。
※成河さんのサイン色紙と写真1カットを、有料会員3名さまに抽選でプレゼントします。この下の応募フォームからご応募ください。応募締め切りは5月5日(金)です。(このプレゼントの募集は終了しました)
『子午線の祀り』萬斎さんの知盛は本当にはまり役。そこに成河さんが共演するなんて楽しみ過ぎます。