演出家で現代美術作家のやなぎみわさんインタビュー。後半は、野外劇『日輪の翼』キャスティングについて、有料部分では歌垣を築くことや祝祭について、演劇と美術の究極の違い、これからについて、たっぷりと語ってもらった。
――『日輪の翼』出演者は俳優だけではなく、コンテンポラリー・ダンサー、ポールダンサー、サーカス・パフォーマー、クラウン(道化師)、和楽アーティストなど多岐にわたっています。どのような観点で配役されたのでしょうか?
オバ役にはシンガーやクラウンなど、私が必要だと思う枠で選んでいきました。サーカスとポールダンスは必ず入れたいと初めから思っていて、それぞれ専門のパフォーマーを配役しました。主人公で、オバたちを乗せてトレーラーを運転する青年、ツヨシの役は、俳優ではなくコンテンポラリー・ダンサーを選んだのは、自分でも予想しなかったことです。ツヨシ役の辻本佳は、生まれも育ちも熊野(和歌山県)です。新宮出身の芸能人もたくさんいますが、彼は特別ですね。スキルではなくて、心身が天地と呼応する人。『日輪の翼』のツヨシは彼でなかったらできないという気がしました。
キャスティングは、もちろんスキル重視の人もいます。バックグラウンドが皆、様々ですので、芸には優れているけれども演技は素人だったりと、それぞれ持っているものと持っていないものがあります。
――本作は音楽劇(音楽監督・巻上公一)でもあり、7月17日に京都芸術センターで音楽の公開稽古が開催されました。その時の生演奏で、中でもオバ役の一人である重森三果さんの声と佇まいに引きつけられました。和服姿で三味線を弾きながら盆踊り歌「きょうだい心中」をブルース・バージョンで歌う姿が、優雅かつ大胆で格好よかったです。
重森さんは、現代音楽家なんですよ。新内奏者(江戸浄瑠璃新内節)ですから伝統芸能者なのですが、持っているスピリットが現代音楽です。珍しいと思いますね。音楽家としてもチャレンジャーです。キクノオバ役として演技も素晴らしいですよ。
<有料会員限定部分の小見出し>
■理想的な紅白歌合戦をつくるように
■矛盾がないと豊穣じゃない
■野外劇と美術館
■演劇7年の変遷から分かる自分の傾向
■美術の自由と孤独、演劇の不自由と豊かさ
■人間がいなくなった後の光景
<日輪の翼>
【京都公演】2017年9月14日(木)~9月17日(日) 河原町十条:タイムズ鴨川西ランプ特設会場
<関連サイト>
『日輪の翼』公式ウェブサイト
http://nichirinnotsubasa.com/
『日輪の翼』野外車両演劇プロジェクトのクラウドファンディング
https://motion-gallery.net/projects/yanagi_nichirin
<関連リンク>
Miwa YANAGI やなぎみわ
http://www.yanagimiwa.net/
※ここから有料会員限定部分です。
■理想的な紅白歌合戦をつくるように
――この音楽劇で「歌垣」を築くことについて教えてください。
歌垣というのは、アジア全体に広がる一つのカルチャー。男性と女性が向かい合って、歌を歌い合う。万葉集でも、男女が交互に詠う形があります。男と女、老いと若き、隣村の住人など異なる者同士が出会い、呼びかけ合い、称え合って歌う。「はないちもんめ」のような形態のものです。今回の京都公演は、韓国アーティストと、東九条マダンの方々と、『日輪の翼』チームが歌垣を築いて演奏します。キャスティングの構成は、サーカスもポールダンスも男女、若い男性とオバたちも老若で、対になっているんです。「つがう」というのかな。そして、つがう時に鳥のように歌うのです。
――異なる者同士がつがう時に歌うというお話を聞いて、願いを感じました。
そうです。でもね、実際に異なった者同士が出会う時は、なかなかそうはいかない。異なった者同士は、お互いに怖いですから警戒します。決定的に状況が違うとか、心境が違うとか、いろんなことで威嚇し合ったり、脅し合ったり、最後に殺し合ったりと。でも、この作品は「祝祭劇」なので、異なった者同士が出会って称え合うという、理想的な願いを込めています。だから紅白歌合戦なんですよ(笑)。白と赤が互いに歌い合って、どちらが勝つにしても、互いに認め合う。そういう理想的な状態にします。それが「歌垣」の「祝祭」というものです。
――音楽の公開稽古の時、最後に韓国アーティストの方が中心になって、プンムル演奏で回っている時にも「祝祭」の空気を肌で感じ、解放感があって気持ちよかったです。
あれは典型的な祝祭の在り方ですね。プンムルノリは、朝鮮半島に古くから伝わる農民の音楽と踊りの芸能。様々な楽器を操り、歌い、舞うのですが、その動きは全て図形になっていて、自転しながら公転し、地球みたいに回っていきます。ケンガリ(小型の金属製打楽器)を先頭に皆で行進し、行進の動きでタオイズムのマークを描いたり、「はないちもんめ」をやったり、天と地が交わったり、ほぐれたり、分裂しながら、陰陽を分かりやすく表している演奏です。それは『日輪の翼』のラストシーンにふさわしいものだと思っています。
ただ難しいのが、『日輪の翼』は舞台作品なので、2時間半の上演という時間制限があります。陰陽混ざり合ってカオスになっているものを編集するという矛盾をはらんでいます。これがお祭りだったら、一晩中ずっと皆で歌い踊っていればいいのですが、物語を進行しないといけない。それにミュージシャンやタップダンサーなど、それぞれの見せ場も次々と移っていきますので、常に何かが同時多発で、てんこ盛りの内容です。
■矛盾がないと豊穣じゃない
――音楽公開稽古イベントのトークで、印象的だったやなぎさんの言葉があります。「物語というのは明らかに、上と下の差異のエネルギーから生まれる。でも中上健次は、その差異を認めながら、差別を否定する。孤独な闘いだっただろうな」と。
差別というのは、差異から生まれます。差異を肯定して差別を否定するというのは、矛盾を生むわけですね。ですが、差異がないと物語も生まれない。例えば、完全にジェンダー・フリーの理想的な世界が実現すると、男女のストーリーは生まれなくなる。差別があって、タブーがあって、いろいろあるから悲劇が生まれる。中上健次は、そのことに若い時から気が付いていた作家だと思います。
中上の文章は、肉を切って血が出るような凄まじいものですが、彼が被差別部落に生まれて、複雑な家庭環境で、いろんな葛藤があったことが創作のベースにあったのは確かです。でもそんなベースがある人が皆、何かを創作するのかといったら、そうではない。何が文学を生むのか、それは分からないです。究極に言えば、無根拠だと思います。生い立ちやトラウマなど、いくらでも理由付けはできるかもしれないけれど、それは説明しきれないものなんですね。それが人間が持っている凄さで、結局、文学や芸術は、固有なものからは自由だと私は思っています。
同郷の方の間でも、中上の評価は難しいようです。芥川賞作家で影響力がある。しかし小説を読むことで、差別の地域が特定されるかもしれないという懸念がある。しかも彼の文学の中に出てくる路地は幻想である、と。リアルな部分と、突飛でもないものが混ざっているので認められない、と。しかしそれは文学の自由ですから。それはとても難しいところで、中上さんはしんどかったでしょうね。しかし、その矛盾こそが豊かなんです。矛盾がないと豊穣じゃないですよ。何の矛盾もない筋が通ったものは、面白くないじゃないですか。
――矛盾は苦しくもありますが、その苦しさと豊かさは、背中合わせなのでしょうか。
そう思いますね。それが、芸術の面白さだと思いますよ。だから思想と芸術は上手くいったりいかなかったり、付いたり離れたりする。それが芸術の持っている自由さですね。筋が通ったことだけでは済まない、何か相反することが必ず含まれる。それが面白い。生きている感じがしますよ(笑)。
■野外劇と美術館
――生きている感じというのは?
野外劇。常に非常事態です。大波小波、たまには凪いでほしいです(笑)。
――荒天の場合は中止になってしまうリスクもありますが。
昨年の4カ所は何とか上演できていますが、高松は大変でしたね。台風でゲネがなくなって、いきなり本番。横浜は仕込みからずっと雨で辛かったですね。毎回、作ってはいけないところに劇場を作るみたいなものですから、スピーカーの向き一つにしても、トレーラーが出る・出られないだの、ありとあらゆる問題が発生して、そのすべてを乗り越えたとしても、最後は風雨でだめになるかもしれない。文学、音楽、美術にはいろんな芸術表現がありますが、私は野外劇が一番割に合わないと思っています(笑)。一番リスクが高い。だから私は最近、美術館に行ったら寝てしまうんです(笑)。冷暖房や湿度管理までしてあって、お客さんも静かに見ている。保育器の中にいるみたいに感じてしまって。
――何の不自由もない、野外劇と全く違う環境。
電気を使うのにも発電機のレンタル料を計算していますから、24時間、空調とセキュリティで護られる美術作品ってすごいなぁと。
■演劇7年の変遷から分かる自分の傾向
――やなぎさんはこれからも演劇をされるのでしょうか?
野外演劇は続けていきたいですね。もちろん劇場も好きですよ。演劇はまだ7年しかやっていませんが、最初の作品は新劇から始めています。初めての劇場公演(『1924海戦』2011年)が築地小劇場を舞台とした演劇で、日本の近代演劇の葛藤を描いた作品でした。現代美術作家がいきなり演劇を作ったら、フラグメンタルな変なものになると周囲は期待していましたが、残念ながらその期待を裏切ってしまいました(笑)。我ながら真面目だと思いますよ。台詞劇から始めて、段々とダンス、そして音楽が入ってという感じになっている。これまでの変遷を見ていると、自分の傾向として段々と台詞劇でなくなってきているのが分かります。『日輪の翼』は台詞が多いですが、今後はサーカス的なものになっていくと思いますね。スペクタクルが好きなので。
――今後の美術作家としての活動は?
機械工学の大学と組んで今、自動上演できるロボットを作ろうとしています。ロボットが演技するものではなくて、ロボットが照明・音響・映像を操作して上演シーンを作り出すイメージです。バッテリーがもたないのが今の課題ですが、もしメンテナンス・フリーという夢が叶ったら、たとえば永久的に『ハムレット』を上演するとか。観客が一人もいなくてもずっと上演している状況を作りたいですね。
■美術の自由と孤独、演劇の不自由と豊かさ
――野外劇で人間の生々しさを体感しつつ、美術でロボットにも目を向け、異なるものを同時に見ていらっしゃる。
これからも舞台作品は作りたいけれど、時折、観客は一人も入れなくていいと思う時があるんです。もちろん舞台は、観客がいないと上演作品として成り立たない。たった一人でもいいから観客がいて、演者がいないといけない。一人と一人、これが最低限の歌垣です。一方、美術は究極、観客がいなくても構わない。それが美術の自由です。ただし、観客がいないのは孤独ですよ。暗闇に球を投げるような感じです。
舞台は、観客との距離が近く、目前の人間に向かって、球を千個投げて十個拾ってもらう。決められた時間の中で、受け取ってほしいと思いながら、全力で投げる。そんな豊かさがあります。美術は、無人の所に球を投げても成り立つ。投げた本人も亡くなり、百年後に誰かが来て、その球を拾ってもいいのです。永久に誰も来ないかもしれないけど。
――自由であり、孤独。
アートとはそういうものです。だからこそ誰も分からなくていいと自由が暴走してしまう。作品が早すぎて誰にも分かってもらえず、死んでからやっと認められるケースもあります。それも有りなのです。でも演劇はそうはいかない。もし、誰も分かってくれなくて不評で、観客が一人も来なかったら、それは不成立なものとして消えるしかない。
■人間がいなくなった後の光景
――今後の展望についてお聞かせください。
先日、朝日新聞に国際芸術祭「南極ビエンナーレ」のことが紹介されていて、それに出品したいと思いました。南極だから観客がいない。そこで例えば、寒冷用のバッテリを積んだロボットが作る『ハムレット』を上演したいですね。見ているのは、ペンギンとアザラシですが。
――その光景は面白いですね。
それは人間が滅んだ後のことを思い起こさせるような気がします。今、人類を含むすべての種の大量絶滅期だという説もあります。これまでの地球の歴史の中でこんなに一つの種が増えた時期はないですから。ホモサピエンスだけこんなに繁栄しているのはおかしい。数千年経って人間がいなくなった時に、例えば『ハムレット』だけが上演されているような光景が見える気がして、面白いなと思うんですよ。言語がわからない生き物たちが見ていて、もしかしたらそこから再出発するかもしれない。
――人間以外の生き物が『ハムレット』を見る。
そう。人間の情念劇から出発しない方がいいかもしれないですけどね(笑)。