「僕たちが撮る意味を考えて…」、映画『僕の帰る場所』來河侑希インタビュー(上)

來河侑希さん=撮影・伊藤華織

2017年の第30回東京国際映画祭で「アジアの未来部門」の作品賞と国際交流基金アジアセンター特別賞の2冠に輝き、2018年のオランダ・シネマジア映画祭ではコンペティション部門でカウン・ミャッ・トゥ君が最優秀俳優賞を獲得したほか多数の海外映画祭で招待上映された、日本とミャンマーの合作映画『僕の帰る場所』が、2018年10月6日(土)から東京のポレポレ東中野で公開され、全国で順次公開されます。この映画の企画の立ち上げメンバーで、「ユウキ」役で出演もしている來河侑希(きたがわ・ゆうき)さんにインタビューしました。上下2回にわけて掲載します。

來河侑希さん=撮影・伊藤華織

來河侑希さん=撮影・伊藤華織

――『僕の帰る場所』はどんな映画ですか?

日本とミャンマーの合作映画ですが、過去、日本とミャンマーで合作された映画としては3本目になります。過去、合作であったのは『日本娘』(にっぽんむすめ)という映画と、『血の絆』(THWAY 血の絆)という長編映画と、僕らの作品が3作品目の映画です。

『僕の帰る場所』は、脚本の9割はある家族の実話が元になっているお話で、日本で難民申請の結果を待ちながら生活する4人(父、母、子供二人)の家族を見つめたお話です。ミャンマーに住んでいたある家族が、諸事情で日本に移民として生活することになるのですが、在留資格が得られず、認められて仕事をすることが困難な中で生活していくんです。先を見通せない生活の中で母が、だんだん精神を病んできて、ミャンマーに帰りたいと思うようになります。

母は悩んだ末、決断をし、子供たち二人と母はミャンマーで生活することになり、日本に残って働く父と遠く離れ離れになるんです。

子供たちは、ミャンマー語を聞いたりすることは、なんとなくできるんですが、日本語しか話せず、日常生活をするほどの言語を喋るということができない状況の中で、突然「ミャンマーに帰るよ」と言われて、学校を転校して、ミャンマーで生活をすることになります。そこで子供たちがどう生きていくのか?を見つめる物語になっています。つまり、帰った先を描いた作品になります。

移民問題を取り扱ったドキュメンタリーは多くあると思いますが、それも含めて、帰還移民の人たちが、その後どのように生きているのかというようなお話はあまり語られていないと思います

――なるほど。來河さんは、「ユウキ」役で出演もしていますが、共同プロデューサーとしても、この企画に携わっておられますね。日本とミャンマーで合作するということ、ミャンマーに着目した事情や、帰還難民、移民問題を取り上げられた、最初の立ち上げなどについて、教えていただけますか。

ミャンマーで映画を作りたいと思ったきっかけは、ぼくが6年位前に『ミャンマーで映画を作りたい』と言ったことなんです。ちょうど、2011年にミャンマーの軍事政権が終わったという宣言がされて、緩やかに民主主義に向かって国内の状況を変えていく中で、どんどん外資が入って、日本だったりアメリカだったり韓国だったり、色々な国が外資をミャンマーに入れていくなかで、ミャンマーが「アジア最後のフロンティア」と騒がれていて、経済ニュースほか、あらゆるメディアで取り上げられていた時でした。

※アイデアニュース有料会員(月額300円)限定部分には、「映画を作ろう」という話から監督募集、ミャンマー訪問、そして当時製作したかった企画内容の動機が見えなくなって一時は「僕らの企画は無しにしよう」となったこと、そして日本でのある出会いから「映画を撮る理由ができた!」と思うまで、について語ってくださったインタビュー前半の全文と写真を掲載しています。10月7日掲載予定のインタビュー「下」では、キャスティングをどのようにしていったのか、「本当に秀逸だったなと思います」と來河さんが語る藤元明緒監督の演出について、そして來河さんが主催する「劇団アレン座(Allen suwaru)」について伺ったインタビューや後半の全文、写真などを掲載します。

<有料会員限定部分の小見出し>

■ミャンマーが発展していく裏にいる、影にいる人たちがすごく気になって、知りたくて

お金もないのに監督募集。藤元監督が持ってきた台本は興味深かったし、熱量が高かった!

■日本に戻って、責任や重さが強くなっていく中で、もともとの企画は一旦白紙にしようと

■日本からミャンマーに帰った子供たちに会うことができて、「僕たちが語る理由」を確信

<日本・ミャンマー合作映画『僕の帰る場所』>
【東京】2018年10月6日(土)~11月2日(金) ポレポレ東中野
全国で順次公開:全国の劇場情報はこちら
https://passage-of-life.com/theater/

<関連サイト>
『僕の帰る場所』公式サイト
https://passage-of-life.com/
『僕の帰る場所』公式twitter
https://twitter.com/passage_of_life
『僕の帰る場所』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=t5hngrn8cSQ
NPO 法人日本・ミャンマーメディア文化協会
https://jmmca.or.jp/

<関連リンク>
來河侑希 Twitter
https://twitter.com/kooai39
來河侑希 オフィシャルブログ「kitagawa diary」
https://ameblo.jp/kitagawa0309

僕の帰る場所 関連記事:

⇒すべて見る

來河侑希 関連記事:

⇒すべて見る

映画 関連記事:

⇒すべて見る

※來河侑希さんのサイン色紙と写真1カットを、有料会員3名さまに抽選でプレゼントします。有料会員の方がログインするとこの記事の末尾に応募フォームが出てきますので、そちらからご応募ください。応募締め切りは11月6日(火)です。(このプレゼントの募集は終了しました)有料会員の方はコメントを書くこともできますので、どうかよろしくお願いいたします。

來河侑希さん=撮影・伊藤華織

來河侑希さん=撮影・伊藤華織

※ここから有料会員限定部分です。

■ミャンマーが発展していく裏にいる、影にいる人たちがすごく気になって、知りたくて

知人から、「日本人がミャンマーに行って、ミャンマーで成功する話を作れば?」という提案をいただいたんです。そこで頭によぎったのは、ミャンマーが発展していくということは、その発展の中に、貧富の差が出てくるんじゃないか、外資が入ることによって生活格差が浮き彫りになっていくのだろう、ということ。そこには想像もつかないような生活があるんじゃないか?という予想が勝手に浮かんできて…。ミャンマーのインターネットやニュースの情報などで、何を着て、何を食べて、何を考えてみたいな事を、色々細かく知りたいなと思いました。

僕は、発展の裏にいる、影にいる人たちがすごく気になっていて、どのように生活をしているのか、当時は知りたくて色々インターネットで調べていたのですが、大きなニュースばかりで、モヤがかかっているなっていう印象があったんですね。ミャンマーのモヤがかかっているものを晴らしていけば、面白いものがそこにはあるという予想があったんです。

その後色々あって、現プロデューサーの渡邉一孝と出会い、「ミャンマーで映画を作ろう」という事になったんです。最初は渡邉プロデューサーからも断られましたけど。そして、監督がいない状況で、監督募集をしたんです。その時は、資金がなくて、ただ「20代の男2人が、ミャンマーで映画を撮りたい」という状況だった(笑)。そんな中、監督募集をして40通くらいの応募が来たんですけど、その中で、藤元明緒監督が応募してくれたんです。お金が無いのに、書類審査とか面接とか、やっていたんですけどね(笑)。ただ僕らは映画を作る仲間が欲しかっただけだったんです(笑)。

來河侑希さん=撮影・伊藤華織

來河侑希さん=撮影・伊藤華織

お金もないのに監督募集。藤元監督が持ってきた台本は興味深かったし、熱量が高かった!

募集期間は1カ月ぐらいだったんですけど、彼は、普通に台本を持ってきたんですよ。「ミャンマー」と「青年」というその2つのキーワードで、企画書を書いてくださいということで募集して、かなり、皆さん、キチンとした企画書やロングプロットを書いてこられていたのですが、藤元監督は、企画書プラス、台本を持ってきていた。

その台本は、青年っていっているのに、「女の子」の話だったんです。それはルールとは全く違うものでしたが、僕個人としては、それは、どうでも良かったんです。単純にその台本が面白かったんですね。カオスな話だったのですが。これ凄いなって。これはかなりやりたい企画だなって思って。

さらに熱量を感じたのは一次審査と二次面接の間にさらに、藤元監督は直しの台本を送ってきたんです。これ、すごくないですか(笑)。熱量がすごい。しかも、渡邉君に電話してきて「直しの台本を送ったんですけど、もう見ました? 見てくださいね、ちゃんと」って、逆に圧力をかけられるっていう(笑)。

知らない国を描くということは、たぶん生半可なものじゃなくて、技術とか経験とかじゃなく、熱量みたいなもの、入っていく力がないと描ききれないという確信があったんです。藤元監督は、その当時、25歳位で、経験も短編映画の監督経験しかなかったんですが、入れない所にも入っていかなくてはいけないし、相当な熱量が必要だと思ったので、実績がある監督もいいですが、全然違う筋肉が必要だという確信がありました。その中で藤元監督ならやれるだろうという確信のもと、経験値は関係なく選出させていただきました。と言っても先ほど言ったように「映画仲間が欲しかった」っていうことなんですけども(笑)。

そして今の3人が揃い、初めてミャンマーに渡航してみたというのが、すべての始まりなわけです。

――20代の3人で、ミャンマーで映画を作りたいと思った、お金の無い3人が始めた事がここまで来たって、すごいですね。

ありがとうございます! この映画の特徴の一つは、ミャンマーに縁もゆかりもない20代半ばの人間が、多くのフィールドワークを通して、日本・ミャンマー合作を作りあげたということだと思います。全員30代になりましたけどね(笑)。

來河侑希さん=撮影・伊藤華織

來河侑希さん=撮影・伊藤華織

■日本に戻って、責任や重さが強くなっていく中で、もともとの企画は一旦白紙にしようと

――お金の無い3人が、熱量を持って、情報が少ない、民主化されたといっても、軍事政権下のような混沌としたミャンマーに行って、映画を作るという作業は大変だったと思いますが、それを切り開く醍醐味もあったんでしょうね。

初めて渡航した時は、2週間位のスケジュールでした。その時は、ミャンマーに住んでいる子供や、発展の光と影を見つめた映画をやってみたかったので、いろんな層の人たちに会いました。お金を持っている人たちとか、全く持ってない人。外で働いている人とか、工事現場で働いている人とか、バンブーハウスに住んでいる人たちとか、駅前で物を売っている人たちとか、ストリートチルドレンとか…。ほとんど通訳と言っても、渡邉さんが日本語から英語に通訳して、ミャンマーは英語を喋れる人も多いので、英語からミャンマー語に直してもらいって、話を理解してもらうような(笑)ものすごい遠回りのコミュニケーションを通して、ミャンマーを知っていくというわけなんですけども…。

――何かエピソードのようなものは、ありますか?

細かいことはお話できませんが、ミャンマーは親日だと言われていますが、必ずしも個人の感情の全てを反映した言葉ではないということを発見できる経験とか、ストリートチルドレンの子と観光に行ったりとか、そういう機会とかもあって、いろんなミャンマーの側面を知っていき、少しずつ、僕らの中で「人の心をしょっていく」というような感じになってきて、映画と関係のないところで僕たちが感化されていくというような、そういう旅でした。

そして渡航から日本に戻って、ミャンマーで映画を撮りたいと強く思っていくんですけど、その責任とか重さとかが強くなっていく中で、僕たちがこの映画を撮る意味がないなみたいなことも考えだすことになりました。

すごくやりたいと思っているけど、人に「この映画をなんで撮ったんですか」って聞かれた時に答えられないんだろうなって考えるように、チーム全体がなっていました。

もともと挑戦したかった企画は、一旦白紙にしようとなって、そこから何日も深夜まで色々代案を話し合って、いくつもプロットを書いたりしてましたが、僕らがやる意味がないっていうことになりました…。

來河侑希さん=撮影・伊藤華織

來河侑希さん=撮影・伊藤華織

■日本からミャンマーに帰った子供たちに会うことができて、今の時代に語る理由を確信

――一旦白紙に…。

映画にとってはとてもよくないことですが、一度企画が0になりました。でも「ミャンマーで映画を撮りたい」っていう気持ちは強かったんです。そんな中で、藤元明緒監督が、「日本に住むミャンマー人は、どんな生活をしているんだろう」と思うようになって、高田馬場などのミャンマー料理屋さんに通ったりして。

その時に、監督がある男性に出会ったんです。身の上話をしていくなかで、彼が「カメラの勉強をしたい」って言っていて、監督がカメラを教えたりして親密になっていき、お互いの身の上話をするという関係の中で情報交換をして…。その中で、彼は、奥さん、子供2人と離ればなれになっていて、一人で生活をしているというお話を聞いて、「この話だったらやれるかもしれない」という事になりました。

初めての渡航から、3ヶ月か、4ヶ月経った頃でしたが、監督から渡邉に連絡が来て。それは今の時代に語る意味があるんじゃないか、監督が、自分で子供たちに会いにいきたいと確信したことで、僕らにしかできない企画ができるんじゃないか?ということで、「ミャンマーの彼の子供たちに会いたい」という話になって。子供たちに会うことができて、やっと僕たちが映画を撮る理由になった、語る理由があるという、ある確信をもってこの企画を進めることになった訳です。

――企画を通して一番苦労したことはなんですか?

一番苦労したのは…、すいません、すべてです。この企画は、先ほども話したように0から始めた企画で、藤元監督も、渡邉も僕も、そもそも長編映画を作るのは初めてでしたので何も解らない所からですので、今は公開前ですが、その準備も、プロモーションも、配給も自分たちでやっているので、企画を初めて5年たった今でも、ずっと初めての経験が続いています。でも企画が映画になるまでの苦労はとても強かったと思います。

――企画が映画になるまでが大変だったんですね。

この企画をやるために、何人の人に会ってきたんだろうと思います。日本に住んでいる、特に高田馬場にいるミャンマー人の人たちからの紹介をきっかけに色々な方とお会いしました。僕個人は、自分の役作りもあるんですけど、キャスティングもしていたので色々な人に会わなくてはいけなかったんです。それは、在留資格を取るために、日本人の保証人になって在留資格を取得することを手伝うとか、僕自身がそれに関わる様々な作業を実際に行う中で、いろんな人に出会い、インタビューを続けました。

――圧倒的に現実のほうが色んな事があって、それを日本人の自分たちが作る意味を考えて。もがきながら、でもしがみついて、手放さなかった。そこから、自分たちが納得して向き合って撮れるものにつながった。3人のお金の無い若者たちが映画を作ったという。面白いですね。

ありがとうございます(笑)。企画を通して自分たちが成長させられる状態でした。

來河侑希さん=撮影・伊藤華織

來河侑希さん=撮影・伊藤華織

※來河侑希さんのサイン色紙と写真1カットを、有料会員3名さまに抽選でプレゼントします。この下の応募フォームからご応募ください。応募締め切りは11月6日(火)です。(このプレゼントの募集は終了しました)有料会員の方はコメントを書くこともできますので、どうかよろしくお願いいたします。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA