日本人キャストで甦ったユージン・オニールの名作、舞台「夜への長い旅路」公演評

「夜への長い旅路」公演より=撮影:村尾昌美

アメリカで20世紀を代表する劇作家といえば、必ず挙げられるのが、テネシー・ウィリアムズ、アーサー・ミラー、そしてユージン・オニールだ。1936年にノーベル文学賞を獲得した巨匠だが、前出の二人に比べて、オニールは日本ではあまり知られていないのが現状だ。作品が上演されることも多くは(とくに大阪では)ない。先月、東京のシアタートラム(9月7日~23日)、大阪の梅田芸術劇場 シアター・ドラマシティ(9月26日~29日)で、オニールの自伝劇「夜への長い旅路」が上演された。ブロードウェイではハリウッド俳優がこぞって主演し、再演が繰り返される名作が、日本人キャストで甦った。その貴重な大阪公演の模様をリポートする。

「夜への長い旅路」公演より=撮影:村尾昌美

「夜への長い旅路」公演より=撮影:村尾昌美

涙と血で刻みつけた、古い悲しみの原稿

自伝劇なので、最初にオニールについて少し説明をしておきたい。1888年にニューヨークで生まれ、有名俳優の父親の仕事の都合で全米各地を転々とする生活を送る。素行不良でプリンストン大学を中退した後、肺結核療養中に戯曲の執筆を始め、「夜への長い旅路」も含めて4回ものピュリツアー賞を受賞した。オニールが1941年に書き上げた同作は、あまりにも赤裸々に彼自身の家庭内の事情を暴露しているため、死後25年間は発表することを禁じていたという。台本には3番目の妻へ宛てて「愛する君に。涙と血で刻みつけた、古い悲しみの原稿を捧げます」と序文を書いている。家族のつらい記憶と向き合うことは、オニールにとって腸をえぐられ、まさに血を流すような行為だったことだろう。なぜ、そうなのか。その内幕は物語が進むにつれて明らかになる。

会場に入ると、むき出しの舞台の両端に、ベンチや机にも見える細長い置物がいくつも並んでいる。電車を待つがらんどうのプラットホームのようだ。舞台の両端(置物の奥)には砂がギッシリと敷かれ、とても神秘的で、美術館でインスタレーションの作品を見ているような気にもなる。そこにオニール自身であるエドマンド(満島真之介)、兄のジェイミー(田中圭)、その父親ジェイムズ(益岡徹)、母親メアリー(麻実れい)4人のタイロン家の人々が次々と登場し、皆でしっかりと最初にハグをする。愛情にあふれた、普通のアメリカ人の家族の光景に見える。

「夜への長い旅路」公演より=撮影:村尾昌美

「夜への長い旅路」公演より=撮影:村尾昌美

過剰ともいえる身体の愛情表現がかえって面白い

舞台の設定はタイロン家の夏の別荘の居間。ベンチのような置物に家族が座り、会話が始まると、無機質なインスタレーションの空間が居間へと変わる。今作の記事を書くにあたり、提供してもらった台本のト書きには、椅子やテーブルの材質をはじめ、本棚の本の種類まで居間の詳細が描かれているのだが、この舞台には置物しかない。お互いの体を隔てるテーブルなどの家具がないため、両親が息子を抱きしめたり、ふざけてこづいたり、兄弟が地べたでプロレスごっこをしたりと、家族の関係がその身体表現によってより濃密に見える。置物に座ったメアリーにエドマンドが膝枕をしてもらい、さらにはメアリーの膝の上に座ってべったりするのには驚いた。台本ではエドマンドは23歳、ジェイムズは33歳だ。日本で23歳の男子が母親の膝の上に座るなんて考えられないが、アメリカ人ならありえるのだろうか。私はブロードウェイでこの作品を見ているのだが、アメリカ人キャストでもここまではしなかったので、過剰ともいえる身体の愛情表現がかえって面白い。今作の演出を手掛けた熊林弘高は、満島真之介のデビュー作となったジャン・コクトーの舞台「おそるべき親たち」で、満島と母親役の麻実れいとの関係を濃厚に描き、親子愛を浮かび上がらせた。彼ならではの演出といえよう。

「夜への長い旅路」公演より=撮影:村尾昌美

「夜への長い旅路」公演より=撮影:村尾昌美

酒と女におぼれるジェイミーをたしなめるジェイムズ。ジェイミーも病気のエドマンドを費用の安いヤブ医者にかからせたことで父親を責める。二人は言い争うが、よくある家族の喧嘩にしか見えない。しかし、かつてピアニストを夢見ていたメアリーが自分の手を見て「ああ、なんて醜い手」といきなり激高する場面から、この家族は何か普通ではないという不穏な空気に一瞬にして変わる。実は、ジェイムズは金の亡者で落ちぶれた俳優、メアリーはモルヒネ中毒、ジェイミーはアル中、エドマンドは肺結核なのだが、4人の演技はそこを強調しすぎてはいない。「夜への長い旅路」の公演前にジェイミー役の田中圭を取材する機会があった。田中は「あえてそういう見せ方だけにするのはもったいないと演出の熊林さんが言っていた。それぞれが抱える問題が垣間見えるようなバランスの取れた演技にしたい」と話していたが、その狙い通りだといえる。

「夜への長い旅路」公演より=撮影:村尾昌美

「夜への長い旅路」公演より=撮影:村尾昌美

シャットアウトしてしまい、また、シャットアウトされる側でもある

昔、ユージーンという息子を産んだが、ジェイミーの麻疹がうつって死なせてしまい、自分を責め続けるメアリー。そのつらい過去が忘れられないあまり、モルヒネに手を出すようになる。「過去は忘れてくれ」と頼むジェイムズに「過去は現在で、未来でもある。私たちは嘘をついて逃れようとするが、それは人生が許さない」とメアリーが応える。モルヒネ中毒を心配されることをうとましく思い、夫と息子たちが出かけた後、メアリーは「皆がいなくなって嬉しいのに、マリア様、どうして私はこんなにさみしいんでしょうか」と手をふるわせながらいう。家族に愛情があっても、自ら皆をシャットアウトしてしまい、また、シャットアウトされる側でもある。そんな経験は誰にでもあるのではないだろうか。メアリーの寂しさやつらさは切実に胸に迫ってくる。

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<公演情報>(この公演は終了しています)
【東京公演】2015/9/7(月)~2015/9/23(水) シアタートラム
【大阪公演】2015/9/26(土)~2015/9/29(火) 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ

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※この公演評の第3幕以降の部分(テキストのみ)は、アイデアニュース有料会員(月額300円)限定コンテンツとなります。

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メアリーの激しさや悲しさ、気高さが際立つ麻実

自然で抑揚がきいた益岡と、あふれる感性の満島

あまりにも正直すぎて愛おしくなる田中のジェイミー

眠らせておきたかった家族の記憶は、幕が閉じると…

メアリーの激しさや悲しさ、気高さが際立つ麻実

3幕目に入ると、モルヒネによるメアリーの幻覚症状はひどくなる。ジェイムズと恋に落ち、幸せだった少女時代と現在を行きつ戻りつし、ジェイムズに対する愛情を示したかと思えば、恨みつらみを激しく言い放つ。舞台に立っているだけで絵になり、存在感と気品あふれる麻実は、まさに適役で、メアリーの激しさや悲しさ、気高さが際立つ演技が光った。

自然で抑揚がきいた益岡と、あふれる感性の満島

ジェイムズとエドマンドがケンカをしながらも、腹を割って話し合う4幕目は印象的だ。昔は名のあるシェイクスピア俳優だった父が、お金に目がくらみ、落ちぶれていった経緯や、メアリーへの愛情などを息子に吐露する。ジェイムズとエドマンドの親子が、シェイクスピアやダウスンの詩を引用しあうシーンも美しくて心を打たれる。満島が取材(彼とも作品の公開前にインタビューを実施)で、「お互いを激しくののしり合うのに、とても愛おしくなる作品。最初に台本を読んだとき、悲劇だとは捉えなかった。この物語はある愛の叫びなんです。皆、愛してほしいという思いが強いから、お酒に走ったり、薬にいったりする。すべて愛ゆえのことだ」と話していた。その言葉が心に刺さる。腹の底から絞り出すような声で、苦しみを打ち明けたり、シェイクスピアのセリフを叙情的に言う益岡の演技は、自然で抑揚もきき、文句なしに素晴らしい。また、あふれる感性で見せる満島は、舞台に立つたびに演技力が増しており、この作品でさらに成長したように思う。

あまりにも正直すぎて愛おしくなる田中のジェイミー

酔っぱらって家に帰ってきたジェイミーが、弟が両親の愛を自分より受けていることや、作家の才能があることなど、兄の弟に対するどす黒い嫉妬、怒りをエドマンドに露わにぶつけていく。「俺はお前が憎い以上に愛している。俺の中の死んだ部分ではお前には成功してほしくない。足を引っ張ってやる。お前の病気が治らないように祈っているし、ママが薬物中毒になったことも喜んでいる。(落ちぶれた)仲間がほしいんだ」と、ジェイミーはエドマンドを組み敷いて、首を絞めながら言う。田中は「ジェイミーはエドマンドを愛すれば愛するほど自分が惨めになっていくんです。人を愛するということは自分自身も血を流している」と語っていたが、彼の体当たりの演技がそれを物語る。あまりにも正直すぎてジェイミーという人物が愛おしくなった。それも田中のなせる技だろう。結核の療養所へ行く予定のエドマンドに「お前が帰ってきたら、兄は死んだことにしてくれ」とジェイミーは言う。実際にオニールの兄はアルコール中毒の末に、悲惨な死を遂げたという。原稿に「血と涙を刻んだ」オニールの心情を思う。しかし、そこまでして書かないと人々の心には残らない。

眠らせておきたかった家族の記憶は、幕が閉じると…

最後は、幻覚症状で完全に少女時代に戻ったメアリーが登場し、「私はジェイムズ・タイロンと結婚して幸せだった、あのときは」と言って夢想にふける。物語は特に何も起こらずそのまま終わる。家族のありとあらゆる問題を抱えたまま。残された3人はメアリーを茫然と眺めるが、やがてジェイムズ、メアリー、ジェイミーがゆっくりと横に倒れていく。残されたエドマンドは一人、砂の音がする中で、光の見える舞台の奥に向かって歩き出す。そして満島が振り返り、倒れた家族に温かい眼差しを向ける。それはオニール自身の眼差しでもある。このラストの演出には強く心を動かされた。田中は、「オニールはこの戯曲を書いたからこそ救われた。それがなければ救われていなかったと思う。だから悲劇とは思えないんです」と話した。私も今、その意味を捉える。オニールの家族の真実を私たち観客は見届ける。エドマンドは「霧の中にいたかった。真実が真実ではない、人生が人生じゃない、自分を自分から隠せる場所」と劇中で言う。霧の中で眠らせておきたかった家族の記憶は、舞台で甦り、生を受ける。そして幕が閉じると、また霧の中へそっと帰って隠れてしまう。それはオニールが、一番望んでいたことだと思う。

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