エッセイ:「Holly You and Me」(4)海の向こうへ

白砂青松の海にコバルトブルーの青空と太陽の光が反射し、港には船の汽笛が響き渡る。波の音は休むことなく、朝から夜までBGMのように静かに奏でる。水平線の向こうに見える本州は、夜になるとまるで宝石のようなネオンが美しい輝きを放つ。

夕暮れ時の明石海峡大橋=撮影・堀内優美

夕暮れ時の明石海峡大橋=撮影・堀内優美

高校時代、テレビで見る都会の街には奇跡のような出会いや出来事がたくさんあって、ドラマチックな未来が待っていると、心から信じていた。当時の私の夢は、物書きになることだった。新聞記者の母の影響もあり文芸部に所属、あがり症で口下手の自分にとって文章を書くことが唯一の表現手段だった。クラスの女子との交換日記はノート100冊以上にまで及び、カバンにはいつもノートを忍ばせていた。とはいえ成績は落ちこぼれ組、高2の1学期に進路指導の先生から「叶わぬ夢」と烙印を押され、新たな夢を探していた。

そんな中で高3の春、高校野球のテレビ番組のオーディションを受けることになった。毎日放送の「球春!センバツ甲子園」という番組で、甲子園に高校野球を見に行きたいという弟の願いを叶えてあげたかった。オーディションの前夜、「面接の極意」なるものを祖父から熱く伝授してもらった。そのおかげもあってか、600人中の13人に選ばれ、アルプスリポーターとして「ブラウン管デビュー」を果たし、新たな夢を見つけることができた。

センバツ高校野球決勝戦で、スタンドで応援する優勝校の野球部員にインタビューする筆者(高校時代)=甲子園球場で、撮影・井上清志さん

センバツ高校野球決勝戦で、スタンドで応援する優勝校の野球部員にインタビューする筆者(高校時代)=甲子園球場で、撮影・井上清志さん

広島生まれの祖父は戦前、劇団の座長を務め、芝居で各地を巡業しながらこの島にたどり着いたという。「要は場数や」というシンプルなアドバイスは、あがり症の自分にとって大きな支えとなった。

祖父は私が中学のとき、癌の腫瘍が見つかり余命3ヶ月と宣告された。身体中に黄疸が出て痛みと闘う祖父の様子に、絶望的になりながらも祈るような気持ちで見守った。ところが3ヶ月後、奇跡的に腫瘍が消え、同時に痛みから解放されて日常生活に戻ることができた。退院してからの祖父は、以前よりも元気な様子だった。スーツ姿でママチャリに乗り、医者の帰りには喫茶店に寄り道して一服、パチンコで当ててきた景品のチョコレートを勉強机の引き出しに忍ばせてくれる。夕方から夜にかけては時代劇とプロ野球中継にチャンネルを合わせ、自分で美味しく入れたコーヒーを嗜んだ。

祖父は孫を平等に可愛がったので、毎年夏休みになると都会から従姉妹たちがやってきて、ひと月ほど滞在した。従姉妹たちは祖母の炊事を手伝っては祖父の代わりに買い物に出かけ、ひと夏の間、家事を手助けしながら島での休暇を楽しんだ。その度に祖母は「助かるわぁ」とうれしそうに笑顔を向けた。それでも夏が終わる頃には、お決まりのように船に乗り、都会の街へと帰ってしまう。静かになった家の中を寂しそうに見つめながら祖母は深いため息をついた。「みんな、行ってしまうんやな……」

高3の冬、同い年の従姉妹は早々と進路を決めたが、推薦入試で全滅した私は祖父たちにずいぶん心配をかけた。ベビーブームの受験戦争はまるで宝くじのようなもので、進路がようやく決まったときは、家族全員が胸をなでおろした。大学からの合格通知はまさに都会の街へのパスポート、華やかな街には夢を叶えるためのたくさんの奇跡が待っているに違いないと、期待に胸をふくらませた。

島を離れる日、朝から祖父母はそわそわし、忘れものはないか、小銭はちゃんと持ってるか、ご飯はちゃんと食べなあかん、といちいち大騒ぎだった。船の中で食べるようにと、母はおにぎりと水筒を私に持たせた。「辛かったら、いつでも帰ってきていいんやで」

港で切符を購入し、スーツケースに荷物を詰め込んで、私は高速艇に乗船した。船内の窓から慣れ親しんだ景色を見渡すと、ママチャリに乗って見送りに来たスーツ姿の祖父が目に入った。

おじいちゃん!

船が出港し、私は窓から必死で祖父に向かって手を振った。祖父もこちら側に気づき、一生懸命手を振っている。声はエンジン音にかき消され、港にいる祖父の姿は次第に遠ざかっていく。

「みんな、行ってしまうんやな……」 祖母の言葉が、頭をよぎった。

祖父が見送りにきた洲本港=撮影・堀内優美

祖父が見送りにきた洲本港=撮影・堀内優美

島で生まれ育った若者たちは、卒業すると故郷を背にして都会へ旅立ち、私も例にもれなく島を離れる。希望に満ちあふれた旅立ちなのに、無性に寂しい。空は青く、海はそれ以上に深い濃紺色を演出していた。故郷の島は、ただ深い緑に覆われているだけだった。

それから2年後、祖父は癌の再発でこの世を去った。主治医の先生の話によると、病室にテレビを入れてくれと希望したらしく、意識のなくなる前々日まで、私がたった数十秒だけ出演している番組を必死で見ていたという。

選抜高校野球でリポーターをつとめる高校時代の筆者=甲子園球場で、撮影:井上清志さん

選抜高校野球でリポーターをつとめる高校時代の筆者=甲子園球場で、撮影:井上清志さん

今や故郷の海では、数分おきに往来していた船の勇姿が少しずつ姿を消してゆき、本州と島を結ぶ大橋の美しい光景がシンボルだ。そして橋の向こうに続く道の先には、優しい時間とあたたかい思い出だけが残っている。

「Holly You and Me」第4回「海の向こうへ」、おわり。

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<「Holly You and Me」これまでの掲載分(隔週木曜日に掲載中)>

第1回 紅葉色の春、訪れて   → https://ideanews.jp/backup/archives/2891

第2回 月に願いを        → https://ideanews.jp/backup/archives/3397

第3回 丘の上から青空見つめて → https://ideanews.jp/backup/archives/3885

第4回 海の向こうへ       → https://ideanews.jp/backup/archives/4406

第5回 阪神電車の車窓から   → https://ideanews.jp/backup/archives/5131

第6回 夕陽に祈りをこめて  →https://ideanews.jp/backup/archives/5764

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アイデアニュース有料会員向け【おまけ的小文】 テレビ番組のオーディションを受ける前に祖父が伝授してくれた「面接の極意」とは(堀内優美)

高校時代の思い出を描くにあたり、祖父の存在が大きく浮かび上がりました。小さい頃から共に過ごした祖父は、鼻が高くてグレーの瞳をした、スーツと煙草の似合う粋な男性でした。おじいちゃんっ子の私にとって「カッコイイおじいちゃん」はちょっとした自慢で、生徒手帳の中に祖父の写真を忍ばせては、友達に見せびらかせていた思い出があります。

祖父は、島娘の祖母と恋に落ち、戦争に駆り出された祖母の兄の代わりに跡継ぎとして養子婿になりました。その後、いくつもの事業を展開し、大成功をおさめるわけですが、その一方でお人好しすぎる性格が災いし、幾つもの保証人になったため事業は破綻、生活は一変してしまいます。祖母はよほど苦労をしたからか「お人好しの婿をもらうと苦労する」と時折、愚痴をこぼしていました。

私が島を離れるとき、都会は怖いところだったらどうしようと不安そうにしていた私に、祖父は「おまえさんが行くところはいいところに決まっとる」と笑顔で送り出してくれました。

「人を見たら泥棒と思え」なんてことわざがありますが、その逆だってあるんだと、人を信じることの大切さを祖父に教わった気がしてなりません。

そんな祖父が、テレビ番組のオーディションを受ける前の私に伝授してくれた「面接の極意」は、以下の4つでした。

【とにかく印象づける】 審査員の心に「おお!」と残るワードを残すこと。ちなみに私の場合は「淡路島から船に乗って来た」というのが審査員の印象に残ったそうです。

【長所は1つだけで良い】 あれもこれもと欲張らず、1つにしぼってPRすること。現在の私は面接講座の講師をする機会がありますが、学生たちが自己PR文を作成する際、「長所は1つにしぼり、それを証明するエピソードを」と教えています。

【緊張しそうになったらお腹を凹ませて笑顔でにっこり】 お腹に力を入れると緊張が緩和される、笑顔は相手の緊張感もほぐすことができる。これはのちにアナウンス学校で腹式呼吸を習得する際にも「ああ、このことにも通じるんだな」と役に立ちました。

【要は場数だ】 最初は誰でも失敗するが、場数を踏めば慣れる。最初からかっこつけてうまく話そうとせず、一生懸命さを伝えることが大切。

今でも新規の仕事をする際にはこの言葉に支えられています。

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