「被災地の花が教えてくれた。花をいけるのは命を繋ぐこと」、片桐功敦×赤坂憲雄対談

片桐功敦さん(左)と赤坂憲雄さん=撮影・桝郷春美

華道家の片桐功敦さんの個展「Sacrifice―福島第一原発30km圏内の花たちが語る言葉」(Hikarie Contemporary Art Eye vol. 6、小山登美夫監修)が2017年春、東京の渋谷ヒカリエ8で開催された。初日4月11日には、いけばなのライブパフォーマンスが行われ、片桐さんが黒いフレコンバッグに花を咲かせ、ラッパーの狐火さんが自作の詩を朗読してラップを歌った。2020年のオリンピックに向けて再開発が進む渋谷の真ん中で、「前を向く時は、必ず後ろを振り返って祈ることの大切さを伝えたい」と企画したものだった。最終日には、片桐さんと民俗学者の赤坂憲雄さんの対談が行われた。「鎮めの作法―被災地とアートの関わりについて」をテーマに、二人が丹念に言葉を交わし、花をいけることの本質に深く触れた対談となった。

展覧会「Sacrifice―福島第一原発30km圏内の花たちが語る言葉」より=片桐功敦さん提供

展覧会「Sacrifice―福島第一原発30km圏内の花たちが語る言葉」より=片桐功敦さん提供

■福島で宝物を得て、大化けしていくアーティストを見てきた

片桐:僕は2013年から15年にかけて、東京電力福島第一原子力発電所から半径30キロのいわゆる「圏内」と言われる場所に入り、そこに咲く野の花を摘み、いけて歩き、写真に写してきました。これは福島県立博物館が運営している「はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト」の招へい作家の一人として、福島県南相馬市に長期滞在して取り組んだ仕事です。この事業の主導者が赤坂憲雄先生です。

赤坂:東日本大震災以後、僕たちは福島を舞台として様々なアートプロジェクトを展開してきました。この事業では、我々が関心を引かれた様々な分野の作家に声をかけて、福島に入ってもらいました。福島が抱える課題にアートを通じて向き合い、発信するこの取り組みに対して全員が福島に関心を持ってくれたわけではなくて、いろんな理由がありますが、「これは無理だ…」と言って入らなかった人もいるし、一度入って二度と来なかった人もいます。その中で片桐さんは現場で多数のいけばな作品を制作し、福島での取り組みにどっぷりと浸かった方です。

福島に入るのは、それぞれに覚悟を強いられることですが同時に、福島をフィールドに作家としての様々な活動を行うことで、とんでもない宝物といいますか何かを得て大化けしていくアーティストたちを、これまで何人も見てきた気がします。その筆頭は、僕は片桐さんだと思っています。片桐さんはその成果を作品集『Sacrifice―未来に捧ぐ、再生のいけばな』(青幻舎、2015年)として上梓されましたが、僕がまず驚いたのは、そのタイトルです。なぜサクリファイスなのか、と。

※約2時間の対談内容をまとめた記事全文をアイデアニュース有料会員(月額300円)限定部分で紹介します。

<有料部分の小見出し>

■いけばなはアートではない

■「痛み」というキーワード、福島に行った理由

■地中に眠っていた水葵の種が一斉に芽吹いた

■一人の華道家が震災以後の福島で花をいけることが慰めでもあった

■「舟とあの世」というモチーフは昔から気になっていた

■汚染していると言われる土でも、ひまわりを育てる力がある

■根源的な問いに対して、新しい風景を創造するのは最高に面白い

【片桐功敦(かたぎり・あつのぶ)】
1973年大阪生まれ。華道家。1997年、24歳で大阪府堺市に続くいけばな流、花道みささぎ流の家元を襲名。そのいけばなのスタイルは伝統から現代美術的なアプローチまで幅広く、異分野の作家とのコラボレーションも多数。小さな野草から、長年のテーマでもある桜を用いた大規模ないけばなまで、その作品群はいけばなが源流として持つ「アニミズム」的な側面を掘り下げ、花を通して空間を生み出している。

【赤坂憲雄(あかさか・のりお)】
1953年東京都生まれ。民俗学者、学習院大学教授、福島県立博物館館長、遠野文化研究センター所長。『岡本太郎の見た日本』でドゥマゴ賞、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。「東北学」を提唱し、東北の歴史・文化風土の掘り起こしをおこなう。著書に、『ゴジラとナウシカ―海の彼方より訪れしものたち』(イースト・プレス)、『3・11から考える「この国のかたち」―東北学を再建する―』(新潮選書)、『東北学/忘れられた東北』(講談社学術文庫)ほか多数。

<片桐さん今後の展覧会情報>
すべて福島での活動についての展示。詳細は各ウェブサイト・フェイスブックページに掲載予定。
【台湾】6月24日(土)~7月下旬 chi-wen gallery・台北
http://www.chiwengallery.com
【福島】7月29日(土)~9月下旬 はじまりの美術館・猪苗代町
http://hajimari-ac.com
【広島】8月1日(火)~15日(火) ギャラリー交差611・広島市
https://www.facebook.com/ギャラリー交差611intersection-611石河や-1109737705724372/
【福島】9月中旬 gallery off grid・福島市
https://www.facebook.com/ギャラリーオフグリッド-1647804838825499/

<関連サイト>
『Sacrifice―未来に捧ぐ、再生のいけばな』青幻舎ウェブページ
http://www.seigensha.com/books/978-4-86152-522-3

片桐功敦さん(左)と赤坂憲雄さん=撮影・桝郷春美

片桐功敦さん(左)と赤坂憲雄さん=撮影・桝郷春美

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■いけばなはアートではない

片桐:Sacrificeは、生け贄、供物、捧げ物を意味する英単語ですが、これは元々自分の根っこの部分にあった言葉です。僕は、いけばなはアートではないと思っています。いけばなで花を切るのは、命を切ること。切る必要のない花をわざと切って別の形に置き換える時に、置き換えられたものは何らかの象徴でなければいけないと思っていて、その時に、花は生け贄なのではないかと昔から何となく考えていました。福島の沿岸部を歩いた時に、それは花を超えてこの場所で亡くなった命すべてに関して言えることではないかと感じ、そうした時にsacrificeという言葉が浮かび上がりました。

赤坂:僕は生け贄について若い頃からのテーマとして考えてきましたが、それが片桐さんの作品集で突然、目の前に現れたように感じています。国文学者の西郷信綱さんは、生け贄とは何かについて、こう指摘しています。

「イケニヘというからには、生きたままのニヘではなく活かしておいたニヘであろうと思われる。イケス(生簀)、イケバナ(生花)、イケビ(埋火)等、みな同じ語構成をもつ。」(「イケニヘについて」『神話と国家』)

いけばなの起源には生け贄の影が射していると、西郷さんは気づいていたのです。

赤坂憲雄さん=撮影・桝郷春美

赤坂憲雄さん=撮影・桝郷春美

片桐:僕が最初に「いける」という動詞の特異さに気が付いたのは、英語に翻訳しようとした時です。いけばなというと大体、Japanese Flower Arrangementと英訳されているのですが、アレンジではない。これは日本にしかない言葉かもしれないと思いました。ならば「いけるとは何か」と考えた時に、死の瀬戸際で生きている状態を見せて、その花が野に咲いていた時よりも美しく挿し入れることができれば人の心に残り、花の命を全うさせられたような気がします。花は、人や動物の命と比べると軽んじられるかもしれませんが、いける瞬間は同等に扱っていますし、その行為を「いける」という以外に表せる言葉が自分の中に無いのです。

■「痛み」というキーワード、福島に行った理由

赤坂:「いける」という言葉は、生命の「生」、活かすの「活」、「逝」けるといった、生と死の境に人が関わって、あるあいまいな崩壊的な状況を作り出している感覚があります。生け贄に関する神話には、なぜかまな板と包丁が出てきます。いかしておいた遺影をその場で調理して神様に捧げるという感覚。だから、生きている木や花を切る時は、命を頂いているある種の痛みがあるのだろうと思います。

片桐:「痛み」というキーワードは、僕の中では大きいですね。花をいけていて幸せだと思ったことは一度も無くて、どちらかといえば辛いです。明るい日向の方にいけているという感覚が今まで無くて、多分これからも無いのではないかという気がします。

片桐功敦さん=撮影・桝郷春美

片桐功敦さん=撮影・桝郷春美

赤坂:片桐さんは堺(大阪府堺市)のご出身。華道家であり、大きな流派ではないインディーズですよね。

片桐:そうですね、インディーズですね(笑)。

赤坂:華道をやっている人たちは、そういう痛みを感じているのですか?

片桐:それは分からないです。ただ、僕が福島に行った理由はいくつかあり、そのうちの一つは、これは赤坂先生との対談だから話すことですが、僕は親父を早い年に亡くしています。41歳。僕が福島に行ったのも、ちょうどその年齢だったんです。日航機墜落事故が今から30年ほど前に起きて、親父はそこにたまたま乗っていて墜落事故死でした。

御巣鷹山に524人を乗せたジャンボ機が落ちて、自然豊かな山は燃えて丸裸になった。最近はそこに元々あった未生(みしょう)の木が生えてきて、ここ30年なりの森に戻っている姿を僕は見てきました。今、その山に登ると、当時の凄惨さは木々が隠しつつありますが、30年間ずっと、そこに卒塔婆や供養塔など影がたくさんあるわけです。そういうところに子どもの頃から通っていましたし事故直後、多くの人が一気に死ぬと、どれだけの阿鼻叫喚になるかを経験していたので、それがたった一人の死であっても人生に十二分の影を落とし、大きな宿題を残していくことはすごく感じていました。

今回の震災は、それと比べものにならない位の宿題を自然が持ってきて、かつ原発事故が将来に対しての宿題を置いていったような場所で、僕自身、死とは何かを改めて、しかも親父と同じ年に考えるのは、多分この機会を逃せば無いと思ったのです。ですから、死を考えるのと花をいけるのは、そういう意味では自分の中でずっとセットです。

■地中に眠っていた水葵の種が一斉に芽吹いた

片桐:僕が福島に行くきっかけは、水葵という花でした。写真中央にあるのが水葵。南相馬市小高区の村上海岸のすぐそばで見つけて、いけたものです。震災から約1年半後の夏、準絶滅危惧種に指定されていたこの植物が、南相馬の沿岸部に咲き乱れるという現象がおこりました。

花:水葵、撮影地:南相馬市小高区村上=写真提供・片桐功敦さん

花:水葵、撮影地:南相馬市小高区村上=写真提供・片桐功敦さん

赤坂:あの辺りは百年ほど前まで、潟でした。潟は海につながっていて、日本海にはたくさんの潟の風景があります。福島にもかつて、多くの潟がありましたが、明治30年代に人口が爆発的に増えたことで干拓され、水田に変わっていきました。その結果、潟と沢水が触れ合う境界に生息していた水葵は、消えていった。それが震災によって津波が土地を攪乱(かくらん)し、以前の状態に戻ったことで、地中に眠っていた水葵の種が一斉に芽吹いて群落を成した。

片桐:僕もその話を福島県立博物館の学芸員の方から聞いて「この花をいけてみないか」という誘いを受け、花一輪に震災の前と先を見てしまい、それを何とか花に託していけたいと思いました。水葵をどういけたら、この現象について花に閉じ込められるか。華道家としてチャレンジでした。

赤坂:今、片桐さんは「花に閉じ込める」と言われましたが、荒涼とした場所に花がいけられることで、逆に風景を思い切り開いてくれるのです。

生き物の生と死。そこに人間がどう関わっているのか。自然の側からすれば、人間が作った人工的な風景を津波によって洗い流し、そのまま放っておけばどんどん原風景に戻った。しかし、人が戻ってほぼ群落が無くなり、その風景が止まった。とりわけ原発事故の被災地に転がっている生と死の風景は、ある種の感受性がある人にとっては、いろんな刺激をもたらす。片桐さんは日航機の事故で父上を亡くしているという、41という数字も……。

片桐:厄年です。

赤坂:そういうことを重ね合わせにしていくと、sacrificeという言葉は、華道家の作品集につけられる名前としては異様だと思うのですが、納得できるところがあります。

■一人の華道家が震災以後の福島で花をいけることが慰めでもあった

赤坂:片桐さんは浪江町の請戸でも野の花をいけて、多くの写真を撮られていますね。請戸の辺りは福島第一原発から5キロほどの距離で、事故の翌日ぐらいに避難が始まっています。津波の被災だけであれば助けられた命を置き去りにして逃げているような状況で皆、心の痛みや後悔を引きずっている。請戸は、生と死が交錯する特別な場所で、鎮魂をやらざるにはここに立てないようなところです。

花:泰山木、撮影地:浪江町請戸=写真提供・片桐功敦さん


花:泰山木、撮影地:浪江町請戸=写真提供・片桐功敦さん

片桐:津波の現場に出向いて花をいけることと、放射能が見えないところで花を切ってくるのは似て非なるものがあります。僕が行ったのはいわゆる避難区域でしたから、朝から晩までずっといても十中八九、一人も人に会わない。しかし、至るところに人の残り香があるので、それが余計に荒涼感を際立たせたと思うのです。

請戸で毎日、誰に会うこともなく花を摘んで、いけていて、すぐそこには原発の煙突が見える。この土地は人が汚してしまったわけで、ここにはもう神様が帰ってこないんじゃないのか、でも自然は帰ってきた、ならば自然が神様なのか……と、もやもやと考えながら毎日歩いていました。

そんな中で、南相馬市鹿島区の草むらの中で祠(ほこら)を見つけました。祠だけはがれきとして撤去されず、必ず起こして石などの上に置いてあったのです。

赤坂:鹿島区の山田神社で神主をしている森幸彦さんは、こういう祠を起こして周りに石を積んで、ここが神社の聖域と明らかにすることをずっと行っていました。そうしないとがれきの集積所にされてしまうから。これは、その一つかもしれない。花は片桐さんがいけたのですか?

花:どくだみ 他 撮影地:南相馬市鹿島区南海老=写真提供・片桐功敦さん

花:どくだみ 他 撮影地:南相馬市鹿島区南海老=写真提供・片桐功敦さん

片桐:そうです。祠の中の構造を見た時に何も無くて、空っぽの場所にきっと何かがあると信じて手を合わせてきている歴史を感じました。そして、倒れていた祠を正体の状態に置く行為の尊さを思い、それぐらい小さなことから神様は生まれるのかなと感じて、これは花を供えておかないと、という気持ちがおこりました。

赤坂:僕は2011年4月初めから1年半ぐらいは、巡礼の意識で震災の現場を歩いていました。僕は花をいける技を持っていないので、花が供えられている場所を見つけたらすぐに、ひざまずいて手を合わせることしかできない。自分はどうやって鎮めをすればいいのか分からないから、ひたすらに手を合わせ、真っ白になることしか考えていなかった。だからこそ、一人の華道家が震災以後の福島に入って、花をいける仕事をしていたことが、僕にとっては刺激であり、慰めでもありました。

■「舟とあの世」というモチーフは昔から気になっていた

片桐:プロジェクトでは、南相馬市博物館の協力で貴重な資料を使わせていただきました。特に民具を現在の土地と照らし合わせて見たときに、そのものが物語ることがたくさんあって、花を加味することで物語をもう少し引きだせないかと思いながら取り組んでいました。

これは厄流しの舟。南相馬では海に厄を流して難を逃れるという風習があって、厄年には地元の神社に行って厄払いしてもらった後、和舟の模型を大工さんに作ってもらい、お札などいろんな飾り付けをして海に流します。

「Sacrifice―福島第一原発30km圏内の花たちが語る言葉」展覧会場にて=撮影・桝郷春美

「Sacrifice―福島第一原発30km圏内の花たちが語る言葉」展覧会場にて=撮影・桝郷春美

赤坂:神話的な写真ですね。舟はこの世とあの世をつなぐ道具であるのは『古事記』にも出てきます。どうして片桐さんが舟を題材に選んでいるのかが気になります。

片桐:僕は出身が大阪の堺で、少し行くと和歌山に入り熊野の那智に補陀洛山寺(ふだらくさんじ)があります。そのお寺には昔、お坊さんたちが生きながらにして観音浄土を目指して航海に出たといういわれがあり、「舟とあの世」というモチーフは昔から気になっていました。南相馬には舟と海と信仰にまつわる道具が博物館にたくさんあって、やはり人は海原の向こうを見ていたのかと理解が深まり、これは花をいけられるべきものだと思いました。それで、落ちた椿を大量に集めてきて、椿の海のイメージにしました。

花:椿 松 梅、採取地:南相馬市原町区内、器:厄流しの舟 南相馬市鹿島区烏崎=写真提供・片桐功敦さん

花:椿 松 梅、採取地:南相馬市原町区内、器:厄流しの舟 南相馬市鹿島区烏崎=写真提供・片桐功敦さん

■汚染していると言われる土でも、ひまわりを育てる力がある

片桐:これは、浦尻貝塚(南相馬市小高区)から出土された縄文土器です。ひまわりを選んだのは2011年夏から翌年夏にかけて、南相馬の沿岸部一帯がひまわり畑になったことがあるからです。ひまわりが放射性物質で汚れた土を浄化するという噂が流れ、地元の人たちが大量のひまわりを植えた。ところが、それは後に誤報と分かった。僕が行った2013年9月にはひまわり畑は無くなっていましたが、畑の真ん中に2メートルほどの高さのひまわりが種の重さで首を垂れていて、遠目で見ると一瞬、人が立っているように見えました。「植えられたのに効果の無かった俺って…」という感じで、うな垂れるように立つ姿に哀愁が漂い、この場所とタイミングでなければ僕はひまわりをこんな風に見ることは無かったでしょう。

赤坂:ひまわりは、希望の花だったんですよ。ひまわり畑が広がっていると、放射性物質を吸着しろと皆、祈るように拝むように眺めていました。しかし翌年、誤報だと分かって一斉に顔を背けましたね。

片桐:それでもひまわりは、種が落ちたところに咲いてこざるをえない。それに汚染していると言われる土でも、ひまわりを2メートル近くに育てるだけの力があるのです。

花:ひまわり、採取地:南相馬市鹿島区南柚木、器:縄文土器(深鉢) 小高区浦尻貝塚 縄文時代中期 大木9式=写真提供・片桐功敦さん

花:ひまわり、採取地:南相馬市鹿島区南柚木、器:縄文土器(深鉢) 小高区浦尻貝塚 縄文時代中期 大木9式=写真提供・片桐功敦さん

赤坂:縄文土器との組み合わせは、どうして生まれたのですか?

片桐: 僕は縄文土器が、日本の歴史の中で器の最高峰だと思っています。これだけ類まれなる造形力のものは、以降出てこない。縄文土器がすごいのは、ほとんどの場合が土に埋めて使っているので、使う人からすると装飾が見えないことが多いのです。にも関わらず、これだけの装飾をなぜ施すのかという点に、人々の信仰の形や、自分を取り巻く自然世界をどう見ていたかが器に刻み込まれている。何らかの儀式でない限り、ここまでの造形にする必要はないだろうと昔から思っていました。そのまがまがしいぐらいに生き生きとした器の口に、今、命を絶ったばかりの花を挿すのが、おそらく縄文人が獲ってきた魚をさばき、内臓をこの中に放り込むのと変わらないのではないか、という感覚がありました。

南相馬では博物館収蔵の縄文土器にいけることができて、その土器がどこで発掘されたもので、そこの土は今どういう状態か、という自分が触れている土器の先の土が見えたことで、土とつながれた感覚を味わいました。この縄文土器は、約4千年前に縄文人たちが暮らしていたときの産物。出土されたのは放射能で汚染された表土ではなく下の地層です。わずかな土の層の違いで、ひまわりがうな垂れて咲くことになり、少し下には元気な時のひまわりのような造形の縄文土器が埋まっている。そのギャップを埋めたくて、ひまわりと縄文土器を合体させました。

■根源的な問いに対して、新しい風景を創造するのは最高に面白い

片桐:縄文土器のことも、舟のことも、sacrificeという言葉にしても、ずっと自分の中にあったことです。ただ、どれも付け焼刃で語れることではなく、その行為自体が意味のある場所で行なわれなければ自分でも説明のしようがないことでした。そのことが福島の30キロ圏内という、天地がひっくり返ってしまった場所で、ぴたっと符合が合ったのです。

赤坂:今日、片桐さんとお話をして、驚きました。かなり意識的に考え切って花をいけていることを知らされました。

片桐:東日本大震災がおきる以前からずっと、自分の中で考えながら日々、花をいけていましたが、それを解き明かしてやろうと思って福島に行ったわけではなく、ただ目の前にあることに体を反応させながら、いけただけです。

花をいけるのは、命を繋ぐこと。被災地に咲く野の花が教えてくれたことです。その花を地に根ざしていた時よりもより一層美しく咲かせることができれば、人の心に宿る花として命を次に繋ぐことができる。

赤坂:花をいけることの深い意味合いを、津波や地震や原発事故によって厳しい状況に置かれている今の福島という土地が問いかけてくる。そこに行けば、むき出しの厳しい現実が突き付けてくる様々な問いかけがあるのです。それにきちんと応答しようとする力を持った片桐さんのような方がそこに立った時には、そこから新しいものが生まれてくる。例えば、「花をいけるとは何か」という根源的な問いかけに対して、後年的なところから応答して新しい風景を創造することができる。それが、不謹慎を承知で言いますと、最高に面白い。一度きちんと片桐さんとsacrificeの話をしてみたかったので、このような機会が与えられて、今日は楽しかったです。ありがとうございました。

片桐功敦さんと赤坂憲雄さん=撮影・桝郷春美

片桐功敦さんと赤坂憲雄さん=撮影・桝郷春美

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