福島訪問の最後、2016年3月13日の朝、福島市渡利(わたり)地区を訪ねました。福島市の中心にあるごくごく普通の住宅地で、お家やアパートが並び、小さなお店があり、学校が建っていました。「もうあまり除染のあとも分からないですね」と案内してくれた関さんがおっしゃったすぐ後に、こんな風景が目に入ってきました。
県庁から阿武隈川をはさんですぐの渡利地区は、福島市内では比較的放射線量が高い地域として知られ、以前は校庭の利用制限もあったそうです。しかし、原発からはおよそ60キロ、特定避難勧奨地点には指定されていません。東京新聞によると、渡利地区の住民3107人(1107世帯)が、2015年7月東電に慰謝料の支払いを求め、原子力損害賠償紛争解決センターに裁判外紛争解決手続き(ADR)を申し立てています。
こちらで、カフェ・ギャラリー「風と木(ふうとぼく)」を営んでいるオーナーの丹治博志さんに、お店の中でお話を聞きました。
玄米や、季節の野菜を中心に、調味料にもこだわり、安心して食べられる美味しいものを提供するお店は、入り口に井戸が、中には薪のストーブがある素敵な空間でした。
2011年3月の事故で、こちらのカフェも大きな影響を受けました。食の安心、安全に人一倍心を傾けてこられたお店を、福島で続けていく苦労は並大抵ではないと思います。お店のテーブルにはそれぞれ、成長期に放射性セシウムを吸収すると言われる菜の花が置かれていました。
■一番望んでいることは「責任をとって原発を終わりにしてほしいということ」
事故後は、山形県の米沢に畑を移し、食材も薪も米沢から調達するようになったのだそうです。カフェの営業時間も以前よりずいぶん短くなりました。今一番望んでいることは、と聞かれて丹治さんはこう答えました。
「責任をとってもらいたいのです」
「こんなことをした責任は誰にあるのか。きちんと責任をとってほしい。そして、原発を終わりにしてほしい。原発がなくならない限り、責任をとったことにならないでしょう」
丹治さんたちは、「福島バッジプロジェクト(FUKUSHIMA Badge Project)」を立ちあげておられます。福島の人たちが、「原発はイヤだ」と意志表示出来るように、何も言えない雰囲気を止められるように、福島の人には無料でバッジを配っているそうです。
「ADRに参加していない、もしくは出来ないという人も多いです。原発事故で散らばってしまった福島の人たちへのエールでもあり、バッジをつけることで、同じ気持ちの人や、関心を持ってくれる人と話すきっかけになったらと思っています」と話す丹治さんの胸にも、菜の花をあしらったバッジがついていました。
福島バッジプロジェクトについてはこちらのHPをご覧ください⇒http://fukushimabadge.blog.fc2.com/blog-category-6.html
■原発事故の後、東京から福島に移住 平田村で4年間暮らした医師は
2016年3月11日から始まった、震災から5年の福島を訪ねる旅、締めくくりは東京駅での友との再会でした。
福島県にある平田村で医師として4年間勤めていた藤田操さんに会いました。福島から東京の家族のところに帰ってきたばかりのところを、無理を言ってインタビューさせてもらったのです。彼とは、医学生だった頃からのつきあい。フィリピンの都市貧困地区でも働いていたことのある彼が、原発事故の後、福島で働いているときいたとき、「さすが藤田さん!」と思いました。
その自慢の友だちが、福島を離れ、今度は沖縄の久米島で働くというのです。そして、その一番の理由は、久米島には福島の子どもたちが安心して外遊びできる保養施設「琉美の里」があって、そこでボランティアスタッフをするからだと。お話を聞きました。
福島の子どもの保養施設「沖縄・琉美の里」に関しては、こちらのHPをご覧ください⇒http://www.kuminosato.com/
■これは、人の命を守るべき医学者たちの犯罪です
医師として藤田さんが経験された事故後の福島について、文章を寄せてもらいましたので、ぜひお読みください。
『福島での4年間を終えて』 藤田操
「私、外遊びしてないからね」そう言ってから甲状腺の検査台に乗った小さな女の子がいました。まるで外遊びが悪いことであるかのように。
福島県では、甲状腺がんとその疑いの子供たちが167人にのぼっています。「過剰診断だ」という医学者もいますが、手術された子供たちの多くは大きな腫瘍を形成していたり、遠隔やリンパ節に転移がみられたり、気管や反回神経に接している(声を失う)状態だったようです。つまり、今手術をしないといけないケースなのです。
これだけ多発していながら県民健康調査委員会は、原発事故との関係は考えにくい(以前は否定的)と言い続けています。放射能の健康への影響はない。したがって、食べ物も心配ないし、多少線量の高い所でも生活できる。そして国は、年間20ミリシーベルト以下なら帰還させるという方針を打ち出しています。賠償も打ち切りというおまけ付きで。
病院などの放射線管理区域は、年間5.2ミリシーベルト以下が基準とされていますが、実際それほど被ばくする医療者は少ないはずです。20ミリシーベルトはその4倍にもなり、そこで子供を育て、学校にも行かせる。それが、どれほど危険で非人道的な政策であるのかを訴えていくことが医療人の役目のはず。しかし実際は、逆のことをやっています。これは、人の命を守るべき医学者たちの犯罪です。
健康に影響が出る、または出るかもしれないのであれば、予防医学に基づいてその対策をとらなければなりません。水俣病など公害病や、薬害事件では、そのメカニズム因果関係が証明できないとして対策を遅らせ、被害が拡大しました。対策を遅らせたのは、やがて訴えられた工場・企業側の論理と力が働いていたからだったのです。
チェルノブイリでは甲状腺がんばかりでなく、白血病や乳がん肺がんなどの固形がんの多発がありました。ほかにも、病院での放射線治療後に起こる吐き気や倦怠感・食思不振などの「放射線宿酔」症状などの健康被害もみられました。国や県はそれらに対しての調査や対策をとるどころか、「安全安心キャンペーン」のもと、人々に避けられる被ばくを強いているのが福島の現状です。
沖縄の久米島に、福島の子供たちが思いっきり外遊びできるような保養施設(球美の里)があります。小さい子を連れてきたお母さんは、「土や草・花を触るのをダメと言ってしまいます。私たちが子供のころは、そうして遊んでいたのに、本当につらいんです」と言っていました。
私がボランティアで球美の里に行った時、やはりボランティアで来ていた高校生がいました。彼女が初めてここに来たのは小学生の時、「その時は、保養の参加者としてきました」と言っていた。子供たちにとっての5年間、私たち大人は本当に大切な時間と空間を子供たちから奪ってしまったんだなと、あらためて思います。
2016年3月11日 福島県平田村にて
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医師・藤田操さんにインタビューした内容を紹介します。
■福島に行くだけじゃなくて、住んでみないと分からないと思って…
■川内村っていう、原発にもっと近い村に定期的に通ってました
■住んでる場所が違えば隣町でも全然状況が違う
■帰りたい人が、帰れなくなってしまうのが、原発の事故なんです
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■福島に行くだけじゃなくて、住んでみないと分からないと思って…
--なんで福島に行くことになったの?
藤田さん:「実家が栃木で、福島は近いってこともあったし、大きな事故だからなにか出来ないかなと思ってちょこちょこ顔を出していたんだけどね。やっぱり行くだけじゃなくて、住んでみないと分からないなと思って。フィリピンでも、医学生時代から顔を出していたところに、結局しばらく住むことになったんだよね。」
--平田村や、平田中央病院は、震災や原発事故の影響はどうでしたか?
藤田さん:「地震の直接の被害はなかったみたいですね。でも、やっぱり原発周辺のコミュニティーも、事故後はひっかきまわされた感じがする。住んでみないとわからないことだなあって。復興バブルっていうのがあるんですよ。お金が入ってきて、なんか事業始めたり施設作ると、補助金がバンって出て……純粋に復興に役立ちたいって思って始めるんだけど、やっぱり箱ものとか道路が優先されてしまって、人の復興が後回しになっている」
■川内村っていう、原発にもっと近い村に定期的に通ってました
--他の村にも訪問診療で行ってましたね?
藤田さん:「川内村っていう、原発にもっと近い村にも、定期的に通ってました。ここは一時全村避難だったんだけど、今は避難指示解除になってて、でもまだ半分くらいの人しか帰ってきてない。行くと、道はきれいだし、大きな施設が出来て、作業員用のビジネスホテルとかあるけど、村の人は仮設に住んでるっていう状態なんだね」
--全身放射能測定(ホールボディカウンタ)は、平田中央病院でやってたの?
藤田さん:「病院でもやってたんだけど僕はタッチしていなくて、ずっといわきの「たらちね」というNPOに関わっていて、甲状腺検査も行っていました」
--気になる症状はありましたか?
藤田さん:「ありましたね。やっぱり……」
■住んでる場所が違えば隣町でも全然状況が違う
--今、保養施設の資料を見たら、次に行く沖縄も、やっぱり福島と関わりがあるから行くって感じなんですね?さっきの話じゃないけど、通っているうちにまた住むことになった?
藤田さん:「そうですね。福島では話ができないことが、なぜか沖縄の「琉美の里」では話せるんですよ。なかなか、原発についてとか避難についての話とか福島では言いにくい。人それぞれ、全然違う立場にあって、住んでる場所が違えば隣町でも全然状況が違って。それに、原発関連の仕事をしている人も、ずっと原発反対の運動をしてきた人もいる。それが、一緒に、同じ避難所や仮設にいたりしても話がしにくいんですよね。沖縄に行く一番の理由は、保養施設の「琉美の里」にボランティアで関わり続けたいから」
--福島で先ほどお会いした「福島バッジプロジェクト」の方も、”福島から声をあげないといけないと思うけど、なかなか難しい。声を出せない人も多い”っておっしゃっていて、関さんも、原発事故後時間がたつにつれて、市民運動がやりにくい、微妙な雰囲気が生まれてきたと繰り返し言っておられました。藤田さんも4年住んでいて感じますか?
藤田さん:「感じますね。最初行った時は、原発に対して”あんなもんなければ良かった”っていう話で、いろんな人と深く話が出来て、それで友だちになれたけど。今は、そういう話をすると警戒される。僕が今度は沖縄に行くって言うと、みんな沖縄いいですね、いいですねって。でも、「琉美の里」の話をすると警戒されるんですよ。一瞬顔がこわばるっていうか、そんな感じですね」
--じゃあ、今度は沖縄で、もう少しのびのびと?
藤田さん:「沖縄に行った方が、その地元の人(福島の人)と、放射能とか原発の話が出来るんじゃないかなって思ってる。だから、もしかしたら、沖縄に住んだら基地の話とか、しにくくなるのかなとも思う。他所から来た人の方が話しやすかったり動きやすかったりすることって、どこでもあるよね」
■帰りたい人が、帰れなくなってしまうのが、原発の事故なんです
--何か最後にひとことありますか?
藤田さん:「今思っていることは、20ミリシーベルトとか、帰還政策とか、いろいろあるでしょ。医者としていうと、健康上、まずいんですよ。そんな高い線量のところに帰るのは。それを声高に言うと、”帰りたい人がいるのになんでそんなこと言うのか”っていう意見も出てくる。でも、高線量で帰れないところは、やっぱり帰れないんですよ。帰すのが間違っているんです。原発事故ってそういうもんなんですよ。帰りたい人が、帰れなくなってしまうのが、原発の事故なんです。事故があってはっきり分かったけど、今原発のある所はそういう問題を含んでいるんだって、みんなしっかり考えないといけないと思う。とりかえしがつかないのが、原発の事故なんです」
いつもさりげなく、一番支援が必要なところにいる藤田操さんのこれからの活動も注目していきたいと思います。心から尊敬し、応援しています。