2021年2月3日に東京国際フォーラムCで東京公演初日を迎えたミュージカル・ゴシック『ポーの一族』(萩尾望都さん原作、小池修一郎さん脚本・演出)のゲネプロ観覧が2月2日に行われました。宝塚出身の女優たちを中心にした美の競演の空気感が「バンパネラらしさ」にリアリティを持たせ、その一方で宝塚出身ではない男優らの「人間らしさ」が同じ舞台に見事に存在し、それがより一層、バンパネラの存在感を際立たせるというキャスティングの効果を感じました。迫力のあるダンスシーンや、上下左右に空間を余すところなく使うダイナミックな演出による臨場感にも息を呑みました。この作品は、2021年2月7日(日)12:30の公演と、2月13日(土)の12:00公演と17:00公演、そして2月28日(日)12:00からの大千秋楽の公演がライブ配信され、大千秋楽公演は映画館でライブ・ビューイング上映も実施されます。大千秋楽公演は台湾の映画館でもライブ・ビューイング上映されるほか、台湾と香港でライブ配信も実施されます。
開幕前の「The Poe Clan」と書かれた緞帳は、さながら赤い薔薇の園。一幕冒頭に登場する、シカ狩りをしながら薔薇咲くポーの森に迷い込むグレン・スミスのような気持ちになり、妖しいざわめきが心に湧き上がってくるのでした。
オーケストラが鳴り、赤い薔薇の園の奥に開けた視界に映し出される光景は、1964年のフランクフルトです。伝説とされているバンパネラ(吸血鬼)である「ポーの一族」が実在するのではと考えているマルグリット・ヘッセン、ルイス・バード、ドン・マーシャル、バイク・ブラウン4世の会話から始まります。ルイスは、5年前にエドガーという少年にギムナジウムで会ったと語ります。時は20世紀。果たして彼が会ったエドガーは、19世紀にグレン・スミスが書き残した日記に登場する「エドガー」と同一人物なのでしょうか。
物語は、彼らの会話にリードされながら進んでいきます。伝承として伝えられてきた「バンパネラ」。観客の私たちもさながら、彼らの語りに耳を傾けるような気持ちになります。でも、これは昔話ではありません。今なお、エドガーは、そして他のポーの一族たちはどこかに…いや、少なくとも「ここ」にいるのです。この記事もまた、私がエドガーたちに会った記録です。
■体温がない存在ながらも脈打つような錯覚を覚えるのは、明日海りおの魅力そのもの
エドガー・ポーツネルは、宝塚版の初演に引き続き、明日海りおさんが演じられています。メイクも変わり、彼女そのものの美しさがひときわ際立っている印象でした。人間としての、素直かつ無邪気で利発な少年エドガーからの、苦悩しつつも精神的に成熟を得た妖艶なバンパネラ・エドガーへと演じ分けも見事です。体温がない存在でありながらも、どこか脈打つような錯覚を覚えるのは、明日海りおさんの魅力そのものなのだと感じました。彼女のエドガーだからこそ、リアリティがあり、観客は「エドガーの目撃者」のような気持ちになるのではないでしょうか。
■初々しさが印象的な千葉。実年齢を重ねているピュアさや脆さを的確に表現
今回がミュージカル初挑戦であったというアラン・トワイライト役の千葉雄大さんは、その初々しい少年らしさがとても印象的でした。少年の形をして数世紀も生きてきたエドガーと、実年齢のみを重ねているピュアさや脆さのあるアランとの対比が的確に表現されており、エドガーとメリーベルがその心に惹かれるにふさわしい説得力があると感じました。孤独を抱え、不機嫌で不遜な美しい少年アランが、エドガーに心を開くからこそ見せる無邪気な笑顔、そして人間に絶望し、ある選択をするラストシーンへ。繊細な心境の変化が現れる、彼の表情も見事です。
■ポーツネル一家の絵のような美しさを完璧なものに仕上げるノーブルな小西遼生
元宝塚トップスターたちの雰囲気に調和し、ポーツネル一家の「絵のような美しさ」を完璧なものに仕上げているノーブルな佇まいが印象的だったフランク・ポーツネル男爵役の小西遼生さん。シーラと「共に塵となるまで」と永遠の愛を誓った男爵は、人間に戻れないことに苦悩し続けるエドガーとぶつかりますが、そこにも強い愛を感じました。彼もまた、エドガーの孤独に寄り添おうとしていたのではと感じられました。
■色恋沙汰を含めて、極めて人間臭いキャラクターを好演した中村橋之助
ジャン・クリフォード役の中村橋之助さんも、ミュージカルは本作が初出演。恩師の娘ジェインと婚約中ではありますが、ブラックプール中の女性たちが彼の虜になっており、隙あらばお近づきになろうとする始末。本人も満更ではないというキャラクターです。シーラを見た瞬間、たちまち彼女の虜に。婚約者そっちのけで彼女ばかり目で追ってしまうのでした。色恋沙汰を含めて、極めて人間臭いキャラクターを好演。バンパネラの透明感とは対照的に、体温のある人間感が見事でした。
■血を求める恍惚とした表情に、冷たくアンビバレントな色気が漂う夢咲ねね
シーラ・ポーツネル男爵夫人役の夢咲ねねさんは、ポーツネル男爵との「永遠の愛」を夢見る可憐な乙女から、魔性のバンパネラ・レディへの変化が圧巻でした。悩めるエドガーと体が弱いメリーベルを気にかける優しさや温かさと同時に、クリフォード医師の血を求める際の恍惚とした表情に漂う冷たさ。そのアンビバレントな危うさに宿る色気は特筆すべきでしょう。歌も素晴らしく、美しく透明感のある声が印象的でした。スコッティ村を逃れ、旅に出る馬車の中でのナンバー、必聴です。
■可憐さに妖しさが加わる綺咲愛里。エドガーを想って歌う新曲は必聴
幼い日々には、老ハンナたちに愛され、養子先ではオズワルドとユーシスという美貌の兄弟に愛され、アランをも魅了するメリーベル役は綺咲愛里さん。彼女を愛さない者など存在しないであろうと思わせる可憐さを感じました。そしてもちろん、エドガーほど彼女を愛した存在はいなかったでしょう。二幕、エドガーと共にアランを誘惑するシーンでは、そんな可憐さに妖しさも加わります。宝塚のデュエットダンスを彷彿とさせる場面は、少年少女の形をした数世紀も生きた二人と、純粋に実年齢のみを生きてきた少年との対比がくっきりと際立つ、息を飲む瞬間でした。宝塚版にはなかった、エドガーを想って歌われる新曲は必聴です。
■この世ならぬ存在感に満ち溢れ、耳を塞いでも響いてきそうな福井晶一の声
大老ポーとオルコット大佐の2役は福井晶一さん。天地から響くような、400年の眠りから目覚めた者の重厚な声。福井さん演じられるキング・ポーの迫力は、この世ならぬ存在感に満ち溢れ、耳を塞いでも心に響いてきそうな、畏怖の念を呼び覚ます響きでした。後半、バンパネラが消滅後に行き着く場所は「天国の隣か、地獄の向いか」と、説得力のある歌声で問うように歌うシーンでは、人間の時間軸から見れば永遠にも見えるバンパネラの儚さが一層胸に迫ってくるのでした。
■涼風真世の力強くドラマティックな歌声だからこその説得力ある2役
老ハンナと霊媒師ブラヴァツキーの2役を演じるのは、涼風真世さん。どちらも「他者を動かすほどの説得力のある言葉を発する」という点が共通しているように思います。涼風真世さんの力強くドラマティックな「聞かせる」歌声だからこその説得力だと感じました。老ハンナは、エドガーを一族にと目論みつつ育てるのですが、バンパネラが一族に入れたいと思うのは、極めて優れた者や愛した者に限ります。「この子をバンパネラに」という思いは、彼を認めた上での愛情だったのではないでしょうか。
※アイデアニュース有料会員限定部分には、印象に残ったシーンを「存在」「時間」を切り口にミュージカル・ゴシック『ポーの一族』を紹介したルポの全文と写真3枚を掲載しています。写真はライブ配信とライブ・ビューイングについて紹介した記事(https://ideanews.jp/backup/archives/103306)に掲載したものと同じです。
<有料会員限定部分の小見出し>
■自らの一番古い記憶をたどるエドガー。それは、メリーベルの泣き声
■「私たちは存在する」。シーラやエドガーに見る、バンパネラの誇りと苦悩
■「時」が絶対的に君臨する物語。何も語らず、そこにいつも「時」は静かにある
■終幕後、時の旅へ出てしまったエドガー。舞台上にいたのは、確かに彼だった
<ミュージカル・ゴシック『ポーの一族』>
【大阪公演】2021年1月11日(月祝)~1月26日(火) 梅田芸術劇場メインホール(終了)
【東京公演】2021年2月3日(水)~2月17日(水) 東京国際フォーラム ホール C
【名古屋公演】2021年2月23日(火祝)~2月28日(日) 御園座
公式サイト
https://www.umegei.com/poenoichizoku/
視聴チケット購入ページ
https://w.pia.jp/t/poenoichizoku/
<キャスト>
明日海りお
千葉雄大
小西遼生、中村橋之助
夢咲ねね、綺咲愛里
福井晶一、涼風真世
能條愛未、純矢ちとせ
(以下、男女五十音順)
石川新太、大井新生、加賀谷真聡、鍛治直人、鯨井未呼斗、酒井航、高橋慈生、新原泰佑、西村清孝、松之木天辺、丸山泰右、武藤寛、吉田倭大、米澤賢人
伊宮理恵、桂川結衣、木村晶子、多岐川装子、田中なずな、笘篠ひとみ、七瀬りりこ、花岡麻里名、濵平奈津美、蛭薙ありさ、美麗
【日本国内ライブ配信】※アーカイブ配信はありません
①2021年2月 7日(日)12:30公演
②2021年2月13日(土)12:00公演(エドガーアングルバージョン)
③2021年2月13日(土)17:00公演(アランアングルバージョン)
④2021年2月28日(日)12:00公演
https://www.umegei.com/poenoichizoku/special.html#live
料金(各回の開演 30 分後まで購入可能):
4,500円(税込)⇒「Go To」適用で3,600 円
パンフレット郵送付6,500 円(税込、数量限定)⇒「Go To」適用で5,200円
【日本国内ライブ・ビューイング】
2021年2月28日(日)12:00公演
会場:全国各地の映画館
https://liveviewing.jp/contents/poenoichizoku
料金:5,500円(全席指定・税込)
【台湾ライブ・ビューイング】
2021年2月28日(日)12:00公演(日本時間)
会場:台湾内の映画館
料金:NT$1450
https://www.umegei.com/poenoichizoku/special.html#live
【台湾・香港ライブ配信】
2021年2月28日(日)12:00公演(日本時間)
料金:NT$1200 HK$335
https://www.umegei.com/poenoichizoku/special.html#live
<関連リンク>
ミュージカル・ゴシック『ポーの一族』 Twitter
https://twitter.com/poe_musical
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■自らの一番古い記憶をたどるエドガー。それは、メリーベルの泣き声
第一幕冒頭では、ポーの一族が全員集合。全世界から集まってくれたのでしょうか。記録によると既に「消滅」してしまったとされるバンパネラの姿も見られますが、そんなことは良いのです。目の前には、確かにポーの一族がいました。エドガーの「哀しみのバンパネラ」の歌詞が胸を突き刺します。「永遠に続く旅路の寂しさ紛らわせよう。人に生まれて、人ではなくなり、愛のありかを見失った。人に生まれて、人ではなくなり、幸せの残り香を忘れた…哀しみを抱いて生きる僕は、バンパネラ」(哀しみのバンパネラ)。彼は、自らの一番古い記憶をたどります。それは、メリーベルの泣き声でした。
時は18世紀。場所は、スコッティ村。捨てられたエドガーとメリーベルは、バンパネラを率いる老ハンナに助けられて育てられます。村の少年や村人たちは、バンパネラを化物やお化けと呼び、排除しようとします。バンパネラを怖がるエドガーに、老ハンナはこう言います。「人間ほど恐ろしい者はいない」と。同じ日、エドガーの前にシーラが現れます。彼女はフランツ・ポーツネル男爵と結婚し、「永遠の愛」を得るのだとエドガーに無邪気に語ります。それは、シーラがバンパネラになることを意味するのでした。
その夜。シーラがバンパネラになる瞬間を目撃してしまうエドガーと村の少年たちは、老ハンナたちの正体を知ってしまいます。村人たちは、一斉に館を襲い、ポーの一族は散り散りになるのでした。一族の存続を願って、ポーの一族に君臨する「キング・ポー」は、エドガーをバンパネラにします。時にエドガー、14歳。こうして彼は、14歳の少年の姿のままで、時を生きることになるのです。18世紀のことでした。月日は流れ、19世紀になり、ポーツネル一家がブラックプールに現れます。ポーツネル一家とは、フランツ、シーラ、エドガー、メリーベルの4者でした。
「絵のように美しい」と形容される彼らは、クリフォードやジェインを始め、人々を虜にしていきます。そんな中、町一番の資産家である少年アラン・トワイライトがエドガーの前に現れるのでした…。周囲の愛を得られず孤独なアランと、愛のありかと幸せの香りを見失って苦しみ続けているエドガーとの出会い。どちらも、「人の愛」を得られずに苦しみ、葛藤しているのでした。エドガーとアランだけではなく、ポーツネル一家とブラックプールの人たちが出会い、バンパネラと人間たちのドラマが始まります。さて第二幕、彼らの運命が交錯した先はいかに…。
■「私たちは存在する」。シーラやエドガーに見る、バンパネラの誇りと苦悩
ポーの一族は「存在している」ということにこだわります。例えば、「この世のものではないような美しさだ」と、クリフォード医師に囁かれるシーラは、「あら、私は確かにここにいるわ」と答えるのです。もちろん、自らの存在を維持するために、バンパネラだと悟られまいとする言葉でもありますが、夢咲ねね演じるシーラからは、「私はポーの一族として存在しているのだ」という誇りをも感じました。一方で、エドガーの「哀しみのバンパネラ」は、彼自身が何者なのかを問い続ける歌です。「僕はバンパネラ」と、哀しみを湛えながら、そっと言い聞かせるように呟くのです。
第一幕、幼いメリーベルは、老ハンナに問います。「私はどこから来たの?」と。ハンナは答えます。「自分がどこの誰かなんて大切なことじゃないよ。私も、レダもエドガーも、みんなお前が好きなんだから」。ハンナに愛されたことにより、エドガーはバンパネラになる運命となります。「人に生まれて、人ではなくなり、愛のありかをなくした」(哀しみのバンパネラより)。「愛があれば、自分が何者であろうと問題ではない」という心理は、自ら望んでバンパネラとなるシーラにも見られます。「人でなくなった」ことに、なお苦しみ続けるエドガーですが、第二幕の終盤、アランとの会話に興味深いセリフがありました。
「君もおいでよ、仲間になるんだ。1人では寂しすぎる」。バンパネラとなり苦しむエドガーですが、共にいたいという思いゆえに、メリーベルとアランを自らと同じ運命に導くのです。彼らとて、同じ苦しみを覚える日が来ないとも限らなくても。エドガーのこの愛のあり方からは、人でなくなったことに苦しむだけではなく、バンパネラとしての自己を確立して行くであろう姿をそこに感じました。やはり、「僕は、バンパネラ」なのです。彼らには脈拍がありません。心臓は動いていないのでしょう。でも、「ハート」はあるのです。
■「時」が絶対的に君臨する物語。何も語らず、そこにいつも「時」は静かにある
『ポーの一族』は、「時」が絶対的に君臨する物語でした。何も語らず、そこにいつも「時」は静かにあるのです。100年前後以上の時間経験をできない人間にとっては、バンパネラは時間そのものです。エドガーが少年の姿のままで時を駆け抜けていく中、かつてのギムナジウムの同級生たちは、成長し、老いていきます。
時の描写として印象的なのは、第一幕ラストシーンでした。舞台前方で歌うエドガーの背後では、彼が劇中で「一番古い記憶」だという赤ん坊メリーベルの泣き声、森に捨てられるシーンから、バンパネラになり、アランに出会うところまで、一幕のストーリーが流れるように演じられます。時系列で整理すると、実に200年近くの時間です。この時間をエドガーが本当に生きてきたのだということを視覚的にも感じられる迫力のある演出でした。
■終幕後、時の旅へ出てしまったエドガー。舞台上にいたのは、確かに彼だった
人間にとっては、エドガーの物語は「伝承」となっていきます。グレン・スミスの日記然り、その話を受けて、彼から4世代後の子孫が目撃したエドガー…。人はこうして、彼の物語を伝えてきたのでした。しかし、エドガーにとっては、一続きの自分の時間であり、彼の記憶なのです。舞台装置も、全幕を通して左右に開くものが多い印象でした。時の扉が開き、言葉に封印された世界を、開いていく隙間から覗き込むような気持ちになります。生ける伝説であるバンパネラこそ、時の割れ目なのでしょう。
二幕終盤、冒頭にも登場した語り手たちの会話を聞きながら、彼らが記録をたどりながら伝えてくれていることによって、この物語は、私たちに届いているのだと気付きました。でも、私が見たエドガーは、彼らの伝承によるエドガーではなかったかもしれません。きっと、本人が現れて、記憶を自ら再現してくれたのだろうと、思わずそう思えた2021年2月2日。幕が下され、エドガーはまた時の旅へ出てしまい、私たちの元には、ゆるやかに時が戻ってきました。時計を見ると、スタートから約2時間半。秒針が時を刻んでいます。舞台は、時計では測れない時を旅させてくれます。バンパネラだけではなく、舞台もまた時の割れ目なのかもしれません。その世界に没入している時、私たちもまた別の時間を生きているのですから。