「夜寝られなくなる時があります」、「スタジオライフ」藤原啓児インタビュー(上)

藤原啓児さん=撮影・桝郷春美

漫画家・萩尾望都さんが作家生活50周年を迎えた今年、萩尾作品を多く舞台化してきた劇団「スタジオライフ」は、萩尾さんの作品『11人いる!』を音楽劇にリニューアルして、2019年5月18日(土)から「あうるすぽっと」で上演し、高校の芸術鑑賞教室でも『音楽劇 11人いる! 』で公演して回る予定にしています。この劇団「スタジオライフ」に33年間在籍し、2014年からは代表を務めているベテラン俳優の藤原啓児さんにインタビューしました。「僕、個人のことを語るのは初めてです」と言いつつ、演劇や劇団への思いが次々とあふれ出た藤原さんのロングインタビューを、2本の記事に分けて5月1日(水)と2日(木)の2日連続でお届けします。また5月3日(金)には、萩尾望都さんが東日本大震災と福島の原発事故を題材として発表した短編漫画『なのはな』をスタジオライフが舞台化した、『なのはな』東京公演と大阪公演を観てのルポも掲載します。

藤原啓児さん=撮影・桝郷春美

藤原啓児さん=撮影・桝郷春美

スタジオライフ公演の舞台挨拶で、周りの人たちを尊重しながら、いつもピシッと締める藤原さん。時に笑いを交えながら、軽快に、しなやかに。それでいて、世の中のことに対して真摯に向き合っておられる印象の藤原さんは、一体どんな方なのだろう…。一人の人間としての藤原啓児さんを知りたいと思い、インタビューを申込むと、「えっ? 僕ですか!」と驚くも快諾してくださり、『なのはな』大阪公演で大阪に来られた時にお話をうかがうことができました。

――まず、『なのはな』東京公演を終えた実感を教えてください。

実際に上演して、家族の物語としてお客様に素直に受け入れていただけたことが分かってきました。僕は、比較的出番が少なかったので、稽古を客観的に見る時間が多かったんです。それで稽古中から、萩尾先生がなぜ家族を物語の中心に置いて描かれたのかについて話はしていました。原発の問題に関して、作中で萩尾先生は賛成とも反対ともおっしゃっていないんです。ですが演じ手は必死に向き合うがあまり、なかなか腑に落ちないこともありました。稽古で知り尽くしていたはずの作品であっても、本番でお客様に見ていただき、ご意見をいただくことによって冷静になれて、より深く自分を見つめ直すことができる。そんな中で出演者たちの想いや言葉が変化していったことに、僕は見ていて感動しました。作品とお客様から教わったことが大きかったです。

東京の『なのはな』千秋楽の舞台挨拶で、一人の役者が、違和感を抱いていた初日からの想いの変化を語っていました。この作品を本当に演じていいのか自問自答していた初日から、公演を重ねてお客様からエールをいただいたことによって、苦心していた気持ちが深く広くなった、と。

例えば、チェルノブイリで原発事故が起きた時、看護師の藤川さん(藤原さんの役)が子どもたちの治療に行く話をしたら、ばーちゃんがたくさんの人形を手作りして藤川さんに委ねたという場面があります。子どもたちのために人形を作ったばーちゃんの思いは、きっと他人事ではなかった。そんなメッセージが物語の中に描かれていたのに、まだ初日の時には気付いてなかった。福島の原発事故の問題をチェルノブイリと切り離して考えるのではなく、まずは他人事ではいけないという姿勢が、上演を重ねる中で彼自身の中にストンと落ちていった、という変化がありました。

※アイデアニュース有料会員(月額300円)限定部分には、『なのはな』東京公演をふり返って、代表を担う重みと受け止め方、「演劇に引きずりこまれた」出会い、社会福祉士としての病院勤務時代、「寄り添う」ことの葛藤と歳月を経て分かることについて語られたインタビュー前半の全文と写真を掲載しています。2日掲載予定のインタビュー「下」では、演劇の世界に飛び込んでからの変化、コミュニケーションの気付き、2019年5月18日(土)から音楽劇としてリニューアル上演される次作『音楽劇 11人いる! 』への想い、高校での「芸術鑑賞教室」再始動、代表としてのマネジメント視点などインタビューの後半の全文と写真を掲載します。

<有料会員限定部分の小見出し>

■自分の家族を大切にすることに目覚めた役者は、多くは語らずとも雄弁

■先代(河内喜一朗氏)がこんなに早く亡くなるとは、誰も思っていなかった

■倉田さんはドシンとしているんです。「何とかなるわよ」と言って(笑)

■初めての就職先は、最重度の心身障害者向け完全看護の病院で社会福祉士

■お粗末な意味で言うんですけど、若いと、すぐに変えられるって思っちゃう

<Studio Life公演 『音楽劇 11人いる! 』>
【東京公演】2019年5月18日(土)~6月2日(日) あうるすぽっと
http://www.studio-life.com/stage/11nin2019/

<関連リンク>
劇団スタジオライフ
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藤原啓児さん=撮影・桝郷春美

藤原啓児さん=撮影・桝郷春美

※ここから有料会員限定部分です。

■自分の家族を大切にすることに目覚めた役者は、多くは語らずとも雄弁

――原発事故という大きな言葉の持つイメージから、色がつけられやすいテーマでもあった中で、演劇という生身の関わりだからこその気付きが大きいのでしょうか。

僕たちは虚構の世界をやっていますが、そもそも演劇は人が紡ぐ物語。お客様も、出演者も人。人から学ぶ、想いから学ぶということを、今回改めて思い知らされました。東京の千秋楽の舞台挨拶で、「家族を演じていることに自覚的になった。僕にも家族がある」と言っていた者もいました。役者はみな貧乏して生活を送っていますが、若い劇団員の中にも殊勝な者たちがおりまして、早くに父親を亡くし、妹や弟を大学に行かせるために、母親と協力して寝る間を惜しんでアルバイトしている者がいます。両親が病弱で、実家にいる弟と協力して、アルバイトの少ない稼ぎの中から仕送りしている者もいます。そういう人間たちが、家族という視点に気付いていくんです。そうすると「意思を持って語らない」というところに至る。

――意思を持って語らない……。

自分の家族を大切にすることが、この芝居に寄り添うことだ、という目覚め方をして、最後は胸を張って「僕は役者ですから精一杯この作品を演じるだけです」という言葉で終わらせる。そういう人間たちの想いって、多くは語らずとも雄弁です。東京は12日間という短い公演期間でしたが、稽古にたどり着くまでもいろんなことがあって、初日を開けてから急ピッチで様々な変化や化学反応が起きていった、面白い公演でした。

――これまでのどの公演とも違う感覚があったのですか?

ありましたね。稽古中に自然と話し合いが始まって、誰が止めるでも始めるでもなく、気が付いたら2時間経っていたことが何度もありました。そういうのは初めてでした。

――現在進行形で起きていることがテーマだから。

それはすごく大きいです。今回、公演が終わったからといって何か答えが出るわけではありませんが、現在進行形のものに対しても、過去に起きたものに対しても耳を傾けて現実と真摯に向かい合っていく。そうしないと、萩尾先生が記された「世界が終わらないように、世界が次の世代に続くように」(2012年3月発行『萩尾望都作品集 なのはな』作者あとがきより)、そして舞台で託した、種をまこう、あなたの「なのはな」を見つけたら、という地点には行けないのかなと思いましたね。

藤原啓児さん=撮影・桝郷春美

藤原啓児さん=撮影・桝郷春美

■先代(河内喜一朗氏)がこんなに早く亡くなるとは、誰も思っていなかった

――藤原さんは役者でありながら、今は代表を務めておられます。代表になられた背景をお聞かせください。

まず、先代(河内喜一朗氏)がこんなに早く亡くなるとは、誰も思っていなかったんです。本来ならば、時期をはかって、次の人間を育てるための準備段階があるはずなのですが、そんな兆しもないうちに急逝されたので……(2014年に大腸がんのため64歳で死去)。それで、どうする!?となって妻の淳子さん、芸名は倉田淳ですが、会社を引き継ぐことになりました。

倉田さんは演出をしながら、実業家としても切り盛りしなければならなくなり、劇団の代表までは手が回らなくて僕に助けを求められたんです。僕はそれまでも、先代をサポートする形で副代表をやっていました。ですが、代表と副代表は、権限から何から全く違います。僕は代表になるために学んでいたわけではなく、河内さんという先代の一番近くにいたのが、たまたま僕だったという話。あとは年齢的なものです。スタジオライフが創立34年で、僕の劇団歴が33年。それだけ長くいることで、次の3代目を育てる意味においても、一回ちょっと藤原が預かってよ、ということで代表に就きました。

――代表を預かる、という意識でおられる。

そうですね。決定権は社長である倉田淳で、僕はその相談相手になる。それは副代表の時も同じで、選択肢を提案する、補佐役ですね。

――副代表の期間も長かったのですか?

10年ぐらいやっていました。

――代表になられてからは。

5年目になります。いや~、傍で見てるのと、実際にやってみるのとは全然違う。あー、先代は孤独だったんだなーと思いながら(笑)。

――孤独を藤原さんも感じますか?

はい。一番孤独なのは、社長である河内淳子(倉田淳)だと思いますが。責任がまず違うんです。指示する側の責任の重さですね。それと同時に、今40人いる劇団員たちの未来を考え出すと、こんなに能天気な僕でも夜寝られなくなる時があります。でも、それはあくまで僕と倉田さんの中での話。先代は夜も寝られなくて明け方4時頃に僕に電話してきましたが、あー気持ち分かるなーって今は思っています。

■倉田さんはドシンとしているんです。「何とかなるわよ」と言って(笑)

スタジオライフは元々、10人ぐらいの小さな劇団でした。それが創立10周年で、萩尾先生からご厚意をいただいて先生の作品を上演できるようになり、劇団としても50人規模の構成になって、各都市で上演できるようになりました。そうして屋台骨が大きくなった分、先代も倉田さんも運営面で大変だったんだろうと思います。

倉田さんはドシンとしているんです。ある意味、先代よりも。先代が急逝した状態で、そのまま引き継げたのは、やはり倉田淳の器がなかったら難しかったのではないかと思います。

――器ですか。

器です。だって実業家として何の経験もないのに「何とかなるわよ」と言って(笑)、それで何とかしてるところがすごいんですよ。泣き事を聞いたことがないですもん。

――そうなんですか。

本当ですよ。僕の方が言ってるぐらいです。倉田さ~ん、勘弁してくださいよって(笑)。泣き事は一切言わないですね。それが、カーッと追いつめられている感じではなく「何とかなる、大丈夫、大丈夫」と言っていますから。

――何か信じるものがあって、そうなれるのでしょうか。

あると思います。

――その信念が器を広げている。

そう思います。それが何かは本人から聞いていませんが、僕はやっぱり、それは演劇に対する情熱かなって。あの人にとって、演劇は人生。それを続けるためには何でもできるぐらいの想いでいるんだろうなと思いますね。カッコいいと思います。

倉田は、実業家としての素質があると思います。難しいことを一切言わないし、人を悲観的にさせない。演劇は別ですよ。演出家として、人を奈落の底に叩き落とすようなことを平気で言いますけど。ハハハッ。それは這い上がってくると信じているから言えることです。でも社長としては、そういう部分は一切ないですね。今、正直、経営が大変といえば大変ですが、そんな状況の中で皆に気配りして「楽しくやっていきたい、面白くなきゃ意味がないから」とやっていられるのは、やっぱりあの人の根本的な質だろうと思います。

藤原啓児さん=撮影・桝郷春美

藤原啓児さん=撮影・桝郷春美

■初めての就職先は、最重度の心身障害者向け完全看護の病院で社会福祉士

――藤原さんが、そもそも役者を目指したきっかけは?

高校1年生の時に観た芸術鑑賞教室の演目が原点ですね。『かげの砦(とりで)』という特別支援学級を舞台にした作品。脚本を書いた小寺隆韶(こでら・りゅうしょう)さんは青森の高校の先生で、高校演劇の全国大会でも優勝している作品です。僕が高校1年生だった1976年当時、この作品を青年劇場が上演して各地を回っていました。

うちは、やんちゃ坊主の集まりの高校で「えー、劇ぃ?」とか言って、最初はしらけていました。ところが芝居が始まったら、皆、膝組んだりして寝ようかな~というような状態から、どんどん前のめりになって、終わると拍手してスタンディング・オベーションですよ。泣いてるヤツもいた。何で?と思うぐらいの高揚感と一体感でした。物語の中に、皆が完全に飲み込まれたというんですか、実際に面白かったんです。懇親会にも行って、さっきまで子役をやっていた大人たちにいろんな質問をしました。演劇の世界に引きずり込まれていったのは、そこからです。

――引きずり込まれた感覚があったのですか。

ありますね。高校1年の時の国語の先生が面白い方で、教科書を一切使わずに小説を読ませるんです。それで感想文を書かせるのが、中間や学期末の試験でした。先生が、『苦海浄土』(石牟礼道子著)や原爆詩集(峠三吉著)、『蟹工船』(小林多喜二著)、『破戒』(島崎藤村著)などの社会派の小説から抜粋して読ませる。高校1年というと多感な時期で、読んでいるうちに頭の中がその世界観になってくるんです。そんな中で、特別支援学級を描いた『かげの砦』という演劇作品に出会い、自分の進路が決まったんです。世の中には社会福祉学という分野があると知り、大学は福祉学科に進学。卒業後に5年ほど福祉の現場で働いていました。

――現場では、どんな仕事をされていたのですか?

最初の2年が、最重度の心身障害者向けの完全看護の病院で社会福祉士。簡単に言うと、身の回りのお世話をしていました。言葉が出ない寝たきりの人、言葉が出るけど寝たきりの人、身体が動かない最重度と呼ばれる人たち。皆、終末期で元気に退院していく人は誰もおらず、出て行く時は棺桶に入っている。そういう施設でした。

――そこが初めての就職先ですか。

そうです。大学で僕は不出来な生徒でした。ただ教授からは可愛がってもらって、「お前みたいなのはこういう所に行って、しっかりと世の中の現実を見たほうがいい」と言われて、その病院にご縁をいただいたんです。

――世の中のなかなか表に出にくい所と、その先の死までも現場で目の当たりにする職場環境。キツくはなかったですか?

違和感は無かったです。高校時代から社会派の本を読んでいたことで、世の中の不条理とか矛盾を頭の中に叩き込んでいたし、観る映画もそうなっていました。『砂の器』とか『カッコーの巣の上で』とか。大学に入ってからもボランティアで施設に行ったりして、準備が出来ていたんでしょう。

――演劇とのつながりは?

学生時代からアマチュアの世界で演劇を続けていました。さすがに役者で食っていけるとは思っていなかったので仕事にはちゃんと就こうと思って、そうしてやっていく中で逆転しちゃったんです。

藤原啓児さん=撮影・桝郷春美

藤原啓児さん=撮影・桝郷春美

■お粗末な意味で言うんですけど、若いと、すぐに変えられるって思っちゃう

――どこで逆転したんですか?

これはお粗末な意味で言うんですけど、若いと、すぐに何かが変えられるって思っちゃうんです。例えば、一つの組織には何十年という歴史がある。その組織を良くしたいという気持ちはいいんですけど、それを急ぐんですよね。すると、こういう現実(矛盾)があるのに、なぜ具体的な対策を立てないんだとエラそうに事務長に詰め寄ったり、婦長に話してみたりとやっちゃうんですよ。今なら、事務長や婦長の気持ちがよく分かるんですけど(笑)。

――代表を務めておられる今なら。

すごく分かります。当時は、「藤原、お前は人に寄り添うとか、安易に言い過ぎる」「患者さんに寄り添うと言うけれど、お前じゃあ、この寝たきりの子どもよりも長生きできるか? 一生、寄り添うってそういうことだよ」と言われました。その通りだと思うこともありましたが、一方で何かおかしいぞ、と楯突くことも。そういうやりとりがまどろっこしくなってきて、だったら大好きな演劇の世界へ、もう食えなくてもいいから、演劇の世界で自分が思っていることを表現していこうと腹を決め、飛び込んじゃったんです。

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