音楽さむねいる:(13)ロシアン・メランコリック・スウィートの系譜 (1)絶望の時を包む 甘く懐かしい旋律

Koichi Kagawaの 音楽さむねいる
連載:音楽さむねいる(13)

『交響曲第一番』より「第三楽章」(1897年)

ミリイ・バラキレフ(※1)(1837年1月2日-1910年5月29日)作曲

『交響曲第五番』より「第二楽章」(1888年)

ピョートル・チャイコフスキー(※2)(1840年5月7日-1893年11月6日)

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■ 悲しみを歌うとき

絶望の淵に突き落とされた時や悲しみに苛まれた時、もし歌があったなら、人は必ずしも短調の暗く悲しい調べを口ずさむことはなく、むしろ幸せだった遠い昔を懐かしむような、甘く切ない旋律に包まれたいと願うのではないだろうか… そんな風に思うことがある。確かに、悲しみや絶望を連想させる題名がついた曲には、その名前とは裏腹に、美しく郷愁をそそるような曲想を持ったものが少なくない。

例えば、“嘆きのセレナーデ”と俗称されるトセッリ(※3)の『セレナーデ』を聴いてみると良い。その題名から連想されるイメージとは異なり、自己の不幸を内面に閉じ込め、心の底から嘆き悲しむような悲愴感はこの曲には感じられない。逆に、不幸な境遇を客観的に俯瞰するかのように、自分を一旦突き放し、その悲しみを周りの風景の中に同化させ、美化してしまうような達観した姿勢が読み取れはしないだろうか。

同様の趣の曲に、有名なカルディッロ(※4)の『カタリ』がある。これは、別名“つれない心”というように、カタリという女性に袖にされた悲しみを自分の心から解放し、外の世界に向けて叫ぶように歌い上げた名曲である。こちらは、ラテン系の恋愛にまつわる曲ゆえ、トセッリのセレナーデとは異なり、かなり情熱的である。しかし、この曲も決して内向きの悲壮感はない。逆にさらりとした哀愁が、捨てられた男の深い嘆きを象徴しているようである。

■ ロシアン・メランコリック・スウィート

このように、“悲しみ”や“嘆き”を表わしている主題を持っている、あるいは、作曲者がそのような経験をしているにも関わらず、抒情的で優しい曲想をもつ作品は古今東西あまた存在する。しかし、同じ趣の曲であっても、その雄大さと抒情的な点においては、ロシアの大作曲家の作品に比肩するものは恐らく皆無ではないか。

“目を閉じれば、春遅いロシアの大地に遠く沈む夕日が残雪や空を赤く染め、起伏に富んだ平原に陰影を作る。そんな風景が、自分がかつて見た故郷の夕景色と同期し、限りなく郷愁をそそる…”

ロシアの大作曲家の作品群には、そんな想いをもたらしてくれる名曲の数々がある。このシリーズでは二回に渡り、バラギレフ『交響曲第一番』から第三楽章、チャイコフスキー『交響曲第五番』から第二楽章、そして、ラフマニノフ『交響曲第二番』から第三楽章を紹介する。これらに共通するのは、哀愁を湛えつつも限りなく耽美で、詩情豊かな美しい旋律である。私はそれを、“ロシアン・メランコリック・スウィート”と呼んでいる。メランコリー(憂鬱)が曲の基底にありながらもそれを直接吐露することはせず、主題となる旋律に敢えて甘く優しい衣をまとわせることによって、作曲者の苦悩や悲しみをより凝縮し、洗練されたものに仕立て上げる作曲様式(作曲家が意図して用いたか否かは別にして)のことである。このようなメロディーを得た彼らの作品は、人々の魂を揺さぶる力を持ち、クラシックの世界だけではなく、映画やドラマ、CM等にも引用され続けている。そして、たとえその曲名や作曲者が誰かは知らずとも、世代を超えた名曲として我々の心に深く浸透しているのである。

■ “おいでおいでをする”旋律

そもそも、音楽を文章で表現することは決して簡単なことではない、と言うか、どだい無理なことである。だが、表現の工夫次第で、そのニュアンスに近づくことはできよう。例えば、チャイコフスキーの作品に見られる、あの甘美な旋律を極めて短く表現したもので、私が最も感心したのは、“曲がおいでおいでをしている”、という表現である。この名言を使ったのは、作曲家で指揮者の故山本直純氏である。私が中学生の時愛読していた彼の著書の中で(名前は残念ながら覚えていないが)その言葉を見つけた時、その的確な比喩に思わず手をたたいて納得したものだった。そう、彼らの曲に共通するあの“ロシア的な”美しさは、まさに聴衆に対して“おいでおいで”をしているように聞こえて来はしないだろうか。

私は山本直純氏のような直感的な天才はないが、代わりに“ロシアン・メランコリック・スウィート”という言葉を長年使い、それらの曲を鑑賞してきた。それを表現する言葉は何であれ、我々を魅了し続けるのは、ロシアの作曲家の作品に共通する独特の“節回し”であるように思える。

■ “五人組”とバラキレフ

1956年のクリミア戦争敗北により、汎スラブ主義による対外的拡張政策が頓挫し、内政や農業政策の改革等国内政治に軸足を移していたロシアにあって、民族的な音楽創作を標榜する集団が現れた。いわゆる“五人組”である。オペラ『イーゴリ公』や交響詩『中央アジアの草原にて』を書いたボロディン(※5)、交響組曲『シェヘラザード』で有名なリムスキー・コルサコフ(※6)、モーリス・ラヴェルにより管弦楽曲に編曲されたピアノ曲、『展覧会の絵』で知られるムソルグスキー(※7)が有名である。彼らの陰に隠れて目立たないが、音楽理論に精通した“五人組”のまとめ役として活躍し、2つの交響曲、2つの交響詩を始めとする数々の作品を残した作曲家にバラキレフがいる。因みに残る一人は、“五人組”の中では最も知名度が低いが、本業である軍務の傍ら数々の美しい作品を残したキュイ(※8)である。

バラキレフの残した二つの交響曲のうち、第一番は完成までに33年も要しており、遅筆の作曲家として知られるになった。しかし実際は、遅筆ではなく個人的な事情からの作曲活動の中断であった。いずれにしても、1897年に上梓されたこの交響曲は、その第三楽章にバラキレフ独特の美しい旋律が示されている。

■『交響曲第一番』第三楽章にみるバラキレフの“憂鬱”

『交響曲第一番』の第三楽章は、木管楽器が短い導入部を提示して始まる。その直後、ハープのゆっくりとした伴奏を従えたクラリネットが、甘美で感傷的な主題を演奏し、それが中断しながら他の楽器へと引き継がれ展開していく。一度聴いたら決して忘れることのないこの旋律には、バラキレフが、国民楽派における民族主義的作曲指向よりも、ロマン派のより強い支配下にあったことが認められる。そこには、やがてラフマニノフやチャイコフスキーに受け継がれていく、“ロシアン・メランコリック・スウィート”の萌芽が認められる。即ち、バラギレフの『交響曲第一番』第三楽章は、彼らの音楽に共通するメンタリティーを橋渡しする役割を果たしているというのが、私の見立てである。では、バラキレフにおけるメランコリックとは何であろうか?

<イーゴリ・ゴロフスチン指揮、ロシア国立交響楽団演奏: そもそもバラキレフの作品の演奏自体がが少ない中、比較的まとまっていて録音も耐えられるものがこれ。20分35秒辺りから第三楽章が始まり、34分24秒辺りから連続して第4楽章が始まる。>

1958年の春、21歳のバラキレフは脊髄炎に罹り、その後遺症としての頭痛、神経質、うつ状態が晩年まで続く。そんな中、“五人組”の作曲家たちはバラキレフの権威主義的な指導を拒み、自立して創作活動を目指していく。反対に、バラキレフの妥協を許さない性質から、彼はそんな現実を受け入れることができず、次第に“五人組”から距離を置くようになる。それに追い討ちをかけるかのように、彼の父親が亡くなり経済的な支えが途絶えてしまう。バラギレフは、彼の妹たちと家計を支えるために音楽を捨て、鉄道員として働かざるを得なくなり、全ての音楽活動を休止する。

■ ロシアン・メランコリック・スウィートの嚆矢バラキレフ

また、当時のロシアを取り巻く国際情勢では、ニコライ二世の治世下において極東の南下膨張政策が採られ、それを阻止する日本と衝突。日露戦争へと突入していく暗い世情を見逃せない。また、国内においては、日露戦争のさなか、後述する“血の日曜日”事件が発生し、労働者のストライキが頻発する。これにより、ロシア帝国は弱体の一途を辿り、やがて第一次世界大戦の導火線が点火されようとしていた。風雲急を告げる国内外の状況の中、バラキレフは楽団から身を引いており、隠遁者のような生活を送っていたらしい。この間、王室礼拝堂の音楽監督を引き受けるものの、彼の出版社とは仲違いをしたり、“五人組”の一人、リムスキー・コルサコフの作曲生活25周年記念のコンサートは欠席するなど、その自己主張の強さによって、親しいもの、特に“五人組”とも絶縁することになる。それでも晩年、作曲活動に復帰し、交響曲第一番や第二番を発表するも、残念ながら人々の関心を得ることはなかった。このことにより、彼は極度に消沈し、自殺まで企てたとも伝えられている。

このようなバラキレフ自身の問題と、ロシア帝国切迫した政情を背景に書かれた『交響曲第一番』第三楽章であるが、作曲者自らが置かれた状況をどこか達観し、昔を懐かしむかのような甘美な旋律で貫かれているのが実にいとおしい。彼の晩年の不幸を考えた時、それでも“ロシアン・メランコリック・スウィート”の嚆矢として果たした彼の役割は、決して看過すべきではないと思う。

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    ■ チャイコフスキーの自殺未遂事件と謎めいた死因
    ■ 復活の『交響曲第五番』
    ■ 第二楽章=甘美な旋律と“運命”の動機
    ■ チャイコフスキーの“ロシアン・メランコリック・スウィート”
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■ チャイコフスキーの自殺未遂事件と謎めいた死因

次なる“ロシアン・メランコリック・スウィート”の旗手は、かの有名なチャイコフスキーである。チャイコフスキーと言えば、『交響曲第六番』(日本では“悲愴”として紹介されている)や『ピアノ協奏曲第一番』、それに三大バレエと称される『白鳥の湖』、『眠れる森の美女』、『くるみ割り人形』など、芳醇な旋律に雄大な管弦楽の響きが特徴の作品が有名である。このチャイコフスキーもバラキレフと同じく、ひどい頭痛持ちで泣き虫、極度の人見知りで神経過敏ときている。また、妄想に囚われることも多々あり、それを飲酒で紛らわせていたと言われている。これらの事実を並べただけで、“ロシアン・メランコリック・スウィート”の“メランコリー”の要素は全て満たしているようだ。しかし、決定的なのは、アントニーナ・ミリューコとの不幸な結婚生活により、体調を崩し、精神的にも危機的な状態となったチャイコフスキーが、秋の冷たいモスクワ川に体を沈め、自殺未遂にまで至ったと言う事実である。この自殺未遂は、元々同性愛者であったチャイコフスキーがそれを隠すために、あるいは、父親を安心させるためにした偽装結婚がもたらした不幸と言われている。

そして、とりわけチャイコフスキーを神秘的な存在に仕立て上げているのは、彼の最後の交響曲“悲愴”が初演された9日後に、彼が突如この世を去ったことである。その死因には様々な説があるが、その中で最も悲劇的なのは、チャイコフスキーと甥との同性愛の関係が暴露・告発された秘密法廷で、判事や弁護士であった彼の法律学校時代の同級生達が、彼の名誉のために砒素による自殺を強要したというものである(当時、ロシアでは同性愛はシベリア送りの重刑に当たった)。現在それは、尿毒症と肺気腫による死因が定説になっている。

かように、大作曲家であるだけに、彼のパーソナリティーとその謎めいた私生活が、最後の『交響曲第六番』の最終楽章における、あの消え入るような憂鬱な最期と相まって、彼の死に対しても神秘的なイメージを作り上げたのかもしれない。

■ 復活の『交響曲第五番』

そんな中、1988年に作曲されたのが『交響曲第五番』である。1988年と言えば、3年前に『マンフレッド交響曲』を発表して以来、交響曲の作曲から遠ざかっていたチャイコフスキーが、指揮者として参加したヨーロッパ演奏旅行の成功により、創作意欲を取り戻した時期である。また、1884年には聖ヴラディミール勲章を受章し、ロシアとヨーロッパ各地を放浪していた生活に終止符を打ち、比較的安定した生活を手に入れている。そして『交響曲第五番』の完成により、チャイコフスキーの創作活動は頂点を成す。

ジャズの『Moon Love』にも引用され、映画やTVコマーシャルの主題歌としても多くの人々に愛されたこの交響曲の第二楽章。その第一、第二主題が、この曲を名曲中の名曲に押し上げた立役者である。

■ 第二楽章=甘美な旋律と“運命”の動機

第二楽章は、弦楽器の静かな導入部に始まり、続いて、ホルンの独奏が甘く美しい調べをゆっくりと、大らかに歌い上げる。しばらくすると、弦楽器がそのホルンの独奏部を引継ぎ、同じ主題を柔らかく反復しながら、これも有名な第二主題へと曲を大きく展開していく。中間部では、“ロシアン・メランコリック・スウィートには”欠かせないクラリネットの音色が、短調の切ない旋律を奏でる。そして、曲は次第に大きく膨張し始め、ティンパニの鼓動が次第に高まる中、金管楽器のファンファーレにより、“運命の動機”へと導かれる。やがて、第一主題の強調された変奏が提示された後、再び第二主題が大きく劇的な盛り上がりを構築する。それが弦楽器のコーダによって終結感を見せるかと思う間もなく、突如金管楽器により、再び“運命の動機”が合奏される。そして、弦楽器が優しく第二主題を繰り返す中、クラリネットの独奏により、曲は静かに閉じられる。非常に劇的な構成であり、チャイコフスキーの人生をなぞるような表情を随所に見せる、実に印象的な楽章だと言えよう。

< レナード・バーンスタイン指揮NYフィルハーモニック演奏。ダイナミックな式には定評があるレニーが手兵NYPを振った名演。>

この第二楽章は、まさに“チャイコフスキー節”の全開であり、山本直純氏が言う“おいでおいで”のオンパレード、“ロシアン・メランコリック・スウィート”のショーケースである。この交響曲は、チャイコフスキーが一時の平穏を得た時期に作曲された作品であるが、かつての自殺未遂事件などの記憶を通じ、音楽に対する霊感が枯渇するかも知れないという恐れが、彼の神経をすり減らし続けていたことは間違いない。この一見糖衣をまとったように甘く感傷的な曲の随所には、そのような不安や恐れを表わした曲想が見え隠れする。そして、その絶頂が、所謂“運命の動機”である。これを“ロシアン・メランコリック・スウィート”としてのカテゴリーにまとめてしまうには、余りにも強烈で主張の強い箇所であるが、起伏に富んだチャイコフスキーの人生=音楽は、これほどまでに振幅の激しい旋律を導入しなければ表現できなかったのかもしれない。

■ チャイコフスキーの“ロシアン・メランコリック・スウィート”

ただ、チャイコフスキーの“メランコリー”は、バラキレフやラフマニノフのそれと趣がいささか異なるようだ。と言うのは、彼らが生きた時代背景の差が、それぞれの曲想の違いに現れているからだと考えている。バラキレフもチャイコフスキーも生まれはほぼ同じ。バラキレフの方が3歳年上であるが、チャイコフスキーはバラキレフよりも17年も早くに没している。ラフマニノフは彼等より更に遅くに生まれ、1843年に69歳で亡くなっている。

即ち、バラキレフもラフマニノフも、日露戦争や“血の日曜日”事件という、ロシア史上極めて重大な出来事に遭遇している。ラフマニノフに至っては、1914年から1918年の第一次世界大戦や1917年の二月革命、1922年のソヴィエト連邦の成立、更には、1943年から戦われた第二次世界大戦を経験するに至っている。一方で、チャイコフスキーは、このような動乱の時代を生きていない。

時代が作曲家の運命を左右するように、彼らの作品も、その文脈から逃れることができないとすると、チャイコフスキーの作品には、このような祖国の重大事からの直接的な影響が希薄のような気がする。もちろん彼も、そのようなロシアの当時の“空気”を呼吸し、時代が大きく移り変わる予兆を肌で身近に感じてはいたであろう。しかし、あくまでも個人の感想に過ぎないが、『交響曲第五番』第二楽章に流れる“ロシアン・メランコリック・スウィート”は、彼を取り巻くロシア社会の情勢から影響を受けた要素よりも、多分に彼の内面の苦悩から発せられている色彩の方が濃厚であるようである(※9)。

※1 Milly Balakirev (1837年1月2日-1910年5月29日)

※2 Peter Tchaikovsky (1840年5月7日-1893年11月6日)

※3 Enrico Toselli (1983年3月13日-1926年1月15日)、イタリアのピアニスト兼作曲家

※4 Salvatore Cardillo (1974年2月20日-1947年2月5日)、イタリアの作曲家

※5 Alexander Borodin (1833年10月31日-1887年2月27日)

※6 Nikolai Rimsky-Korsakov (1844年3月18日-1908年2月27日)

※7 Modest Mussorgsky (1844年3月18日-1881年3月28日)

※8 César Cui (1835年1月18日-1918年3月26日)

※9 ただし、ここに紹介したバラキレフの『交響曲第一番』は1897年に作曲されるため、当時のバラキレフはチャイコフスキー同様、上記重大事件を知らずに作曲を進めていたことになる。バラキレフの作品が多くないため、時代背景が彼の作品にどのような影響を与えたかを感じ分けることは、残念ながら私の能力では不可能である。

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