『交響曲第8番ト長調』(1890年)
アント二ン・ドボルザーク(1841年9月8日-1904年5月1日)作曲
■ ドボルザークの“交響曲第8番”-副題が高めた人気
さて、もう一方の、ドボルザークの8番目の交響曲であるが、こちらは彼の交響曲中、『交響曲第9番ホ短調(“新世界より”)』の作風と、『交響曲第7番ニ短調』以前のそれとを厳然と区別する、特殊な位置にある独特の作品である。即ち、“新世界より”が、アメリカの国民的な音楽における旋律の精神を取り入れつつも、アメリカから祖国ボヘミアに向けた強烈な郷愁が感じられる作品であるのに対し、“第7番”より前の交響曲は、ブラームスの影響を強く受けた古典派の作風を残すものであり、“第8番”が両者を繋ぐ役目を果たす作品だということである。
実は、この“第8番”の交響曲には、かつて“イギリス”という副題が付けられていたことがある。私も、この曲のレコードを初めて購入したのは、その副題の醸し出す雰囲気、即ち、イギリスの高原を渡る緑風のような爽やかさに惹かれたからであった。時おりしも5月の初旬、この曲の軽快な旋律を口ずさみながら、田舎の田園地帯を通って高校に通学していた私の背中を、暖かい初夏の風が優しく押してくれていたことを思い出す。その風に乗って私の夢は空を駆け巡り、無限の可能性を秘めた世界へと羽ばたいていった。
しかし、“イギリス”という副題は、この曲がロンドンのノヴェロ社から出版されたことに由来するだけであり、作曲者は、そのような副題が付けられようとは思いもしなかったに違いない。それでも、“イギリス”という愛称は、私の青春時代の原風景を美しく彩る想い出と相まって、この交響曲に最も相応しいもののように今でも感じるのである。
ベートーヴェンの8番がさほど演奏される機会がないのとは対照的に、このドボルザークの8番は、“新世界より”に続いて頻繁に舞台に掛けられる曲である。作曲者自らが付けようが、後世の聴衆が愛称として名付けようが、副題を持つ曲の威力はかように大きいという一つの証左であろう。いわく付きの8番目の交響曲の明暗が副題にあるとしたら、傑作だと胸を張って主張できるベートーヴェンの8番目の交響曲は、その作品の価値に比べると、結構割に合わない運命を辿ってきたのではないか。逆にドボルザークの8番は、“イギリス”という四文字の副題が付けられたことにより、その人気が高まったというのはうがち過ぎであろうか。
※アイデアニュース有料会員(月額300円)限定部分では、古典派・ロマン派の“話法”を踏まえながら、その枠組みの中に、活き活きと跳躍する民族の熱い血と、それを育んだボヘミアの大自然の息吹が聞えて来る、ドボルザークの『交響曲第8番ト長調』について詳しく紹介し、また、“8番”に傑作を掘り当てたもう一人の作曲家、『交響曲第8番変ホ長調』、通称“千人の交響曲”を作曲したマーラーについて説明しています。
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■ チェコの民族精神の発露
■ 交響曲の集大成としての“交響曲第8番”-神の祝福か悪魔の仕業か
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■ チェコの民族精神の発露
ドボルザークは、古典派・ロマン派の様式を踏襲する作曲家であり、その技法や構成にブラームスの影響を強く受けている。しかし、彼の生きた19世紀後半のチェコは、自由主義、民族主義の機運の高まりとともに、オーストリア・ハンガリー帝国からの独立を求める運動へとつながる国民精神の大きな流れが渦巻いていた。音楽に世界においても民族主義が提唱され、チェコ人によるチェコの音楽=民謡の採集などを通じて、民族意識を音楽に反映させる活動が活発に行われていった。そんな中で、ドボルザークは、作曲家としての地歩を固めて行ったのである。
ドボルザークは、西欧の伝統的な様式の上に、スラブ的、チェコ的な民族音楽を取り入れ、その交響曲や管弦楽曲、室内楽曲に、標題性を伴わない絶対音楽(※3)の要素を重視した作風を確立したのである。そして、古典派・ロマン派の“話法”を踏まえながら、その枠組みの中に、活き活きと跳躍する民族の熱い血と、それを育んだボヘミアの大自然の息吹が、この『交響曲第8番ト長調』からは聞えて来るような気がする。この曲は、ドボルザークの作品中、“新世界より”を除いて、それまでの交響曲の最高峰に位置づけられる、非常に重要な交響曲であると言えよう。各楽章の特徴は以下の通りである。
まず、第一楽章の冒頭では、哀愁を帯びたト短調の旋律がチェロで演奏される。続いてフルートの独奏によって、鳥のさえずるようなト長調の曲が演奏されるが、これらは対で第一主題を構成している。引き続き、これも対で第二主題を形作っている、ロ短調とロ長調の主題が展開していく。
第二楽章は、弦楽器が静寂な旋律を奏でた後、中間部において、軽快な民謡風の旋律が演奏される。その後曲想が変わって、金管楽器がクライマックスを築き、ホルンが嵐のような激しい音階を吹く。そして、また再び民謡風の旋律に戻り、トランペットのファンファーレで終了する。この楽章は、全曲を通じて最も民族的な“話法”で貫かれており、ボヘミアの自然を大らかに歌っているかのような、非常に美しい楽章である。
第三楽章では、優雅でもの悲しい3拍子の舞曲が印象的である。その後長調に転調したオーボエとフルートに導かれて、素朴で美しいフレーズが展開されていく。これは、自作オペラ『頑固者たち』からの引用である。そして、再び短調の舞曲が繰り返され、それが弦楽器の変則的なリズムに受け渡され、最後は金管楽器によってクライマックスが築かれる。
第四楽章は、冒頭からトランペットによる華やかなファンファーレが鳴り響く。そのすぐ後、ティンパニが短く低く連打され、チェロによる第一主題がゆっくりと提示される。この第一主題は何度かの変奏の後、強烈な調子で速度を増していき、ハ短調の変奏に引き継がれる。この主題による短い展開部を経て主要動機が再び提示され、金管楽器のファンファーレで見事なクライマックスとなる。そして、提示部の主題がチェロで静かに再現され、小休符の後に突然第一主題が総奏され、速度を増しながら華麗なフィナーレで楽章が締めくくられる。
ドボルザーク『交響曲第8番ト長調』、ジョージ・セル指揮クリーブランド管弦楽団演奏
■ 交響曲の集大成としての“交響曲第8番”-神の祝福か悪魔の仕業か
さて、以上ベートーヴェンとドボルザークによる“8番目の交響曲”を見てきた。副題の有無だけが原因とは言えないであろうが、それによって曲の知名度が左右されてしまったことは否めない。しかし、交響曲を9曲書いて世を去った、この二人の天才作曲家の最晩年の作品である“交響曲第8番”は、それまでの交響曲の集大成としての威厳が見て取れる。それは、独創性であり、作曲者の“遊び心”であり、挑戦や情熱が盛り込まれた濃密な世界である。二人が死を覚悟したか否かは定かではないが、彼らの“交響曲第8番”には、もうこれで交響曲は書けない(書かない)というような、最晩年の作品に対する覚悟が抜き身で隠されている。
“合唱付き”にせよ、“新世界より”にせよ、それをもってこの天才たちの最高傑作であると評価することは通例ではあろう。しかし、その最高傑作に至る一歩手前の彼らの作品には、音楽の高みへ登って行く途中で突然地平が開けたかのような、発想の広がりが共通して見て取れる。それは、一体何故であろうか?作曲者の“円熟味”という言葉だけで片づけるのには、いささか抵抗がある。円熟した作曲家は全員、その最後から2番目の交響曲に傑作を置くことができるとは限らないからである。では、それは偶然の産物なのであろうか?そうだとしたら、それはまさしく、数字の“8”に秘められた不思議な力の賜物なのかもしれない。それは、日本のように神の祝福なのか、あるいは、欧米のように悪魔の仕業なのか。交響曲の成否が、“8”に隠された因縁に左右されるとすれば、そして、それが傑作である可能性が高いとすれば、全ての作曲家は、意図して自身の最高傑作を“8番”とするかもしれない。
そのことをあたかも意識したかのように、“8番”に傑作を掘り当てた作曲家がもう一人いる。『交響曲第8番変ホ長調』、通称“千人の交響曲”を作曲したマーラーである。前述したように、彼は9番目となる交響曲に番号を振らなかった。“交響曲第9番”を書いて世を去ったベートーヴェンやブルックナーに倣いたくなかったからである。意識して付番しなかったのであるから、『交響曲イ短調(大地の歌)』はここでは除き、また、最後の『交響曲第10番嬰へ長調』は未完成であることから、“千人の交響曲”は、最後から2番目の交響曲と言える。この交響曲が(これにも副題がある)、マーラーの最後から2番目の交響曲であるという事実は、マーラーが、その9番目の交響曲を無番号の『交響曲イ短調(大地の歌)』としようが、10番目の交響曲が未完成で終わろうが、結果として“8番”目の交響曲となったこの曲は、マーラーの不動の傑作、彼の交響曲の集大成なのである。彼もまた、“8”に祝福された交響曲作家であった。
※3 標題音楽に対する用語で、歌詞を持たない音楽の中で、物語その他文学的な何ものか(標題)を音楽で表現しようとする音楽でなく、音楽そのものを表現しようとするような音楽をいう(歌詞を持つ音楽はそれ自体が文学的な表現をするので、標題音楽・絶対音楽という分類そのものが無意味である)。(Wikipediaより)