『東大寺二月堂修二会声明』
『薬師寺花会式声明』
組曲『四季』より「花」(1900年)
竹島羽衣作詞、滝廉太郎(※1)作曲
『憾』(1903年)
滝廉太郎作曲
『花の街』(1947年)
江間章子作詞、團伊久磨(※2)作曲
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■ 日本人と花-万葉集に見る百花繚乱
さて、次は日本の花にまつわる音楽に目を向けてみよう。寒帯から亜熱帯に属し、山河が複雑な構成を見せる日本では、世界に類を見ないほど数多くの花の種類を誇り、四季の移り変わりと共に、人々が花に対して格別の思いを寄せる精神文化が古くから発達してきた。
例えば、万葉集には約四千五百の歌が収録されているが、その三割強の約千五百首に何らかの花が詠み込まれているという。よく人口に膾炙しているものとして、
もののふの 八十娘子(やそおとめ)らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花
-大伴家持(巻十九・四一四三)
夏の野の 茂みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものそ
-大伴坂上郎女(巻八・一五〇〇)
あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しも
-柿本人麻呂(巻二・一六九)
わが背子が 捧げて持てる 厚朴(ほほかしは) あたかも似るか 青き蓋(きぬがさ)
-僧恵行(巻十九・四二〇四)
などが挙げられよう。因みに、堅香子はカタクリの花、“ぬばたま”はヒオウギ、ほほかしはとはホオノキのことである。とりわけ、“ぬばたま”は橙色のその花ではなく、黒い実の方が詠われている。従って、“ぬばたま”は、闇夜や髪など、黒色を象徴する枕詞としての用法が有名である。しかし、“ぬばたま”を枕詞に持つ歌は七十九首もあるが、その花そのものを詠んだ歌は見当たらないらしい。
古来日本人は、“うた”を介して神と交信してきた。神仏の仰せを“詔(みことのり)”と言い、それが天皇の詔勅としての性格を帯びることになる。詔は神の資格において宣下するものであり、定型の様式を備えていた。やがてその様式が変化し、神と巫女、君と臣、男と女の間に、問いかける形式の“うた”が生まれ、広く謡われるようになった。万葉集に数多く残る花を詠んだ歌は、声に出して謡う声楽的要素を含むため、是非とも音楽と花を題材にした今回のエッセイに加えたいと考えた。
■ 日本人と花-仏教における花と音楽
また、仏教行事にも花は欠かせない。とりわけ、仏法興隆、国家安泰、万民豊楽、五穀豊穣を祈念し、奈良の大寺で毎年執り行われる修二会(しゅにえ)と呼ばれる法要には、花々が大きな役割を果たす。例えば、東大寺二月堂で厳寒の毎年二月から三月にかけて厳修(ごんしゅ)される修二会(通称“お水取り”)では、奈良の名椿“糊こぼし”の造花数百を僧侶が作り、それらを実際の椿の枝に刺して祭壇に供え、本尊である十一面観音菩薩に対する悔過(けか)法要=懺悔をする法要が繰り広げられる。同じ奈良の薬師寺では旧暦の二月、即ち、毎年三月末に、本尊薬師如来に対する悔過法要としての修二会が執り行われる。これは、別名“花会式”と呼ばれる通り、僧侶たちが十種に及ぶ花の造花を拵え、本尊に供えることで法会が進行する。
修二会の法要に欠かせないのが声明(しょうみょう)である。これは、仏を讃えるため、僧侶が節を付け唱える声楽である。修二会に限らず、種々の法要で唱えられる声明は、キリスト教のミサ曲と並んで、聖なる神仏に捧げる宗教音楽の白眉であると私は考えている。以下、東大寺二月堂修二会の声明と、奈良薬師花会式の声明を紹介する。寒さに凍えた堂内に響き渡る男性合唱は、礼を尽くして花の季節を迎える宗教儀式を最大限に盛り上げる効果がある。
『東大寺二月堂修二会声明』
『薬師寺花会式声明』
■ 日本における西洋音楽の黎明期に咲いた花
さて、ここからは近現代の日本における、花に関する歌曲を紹介したい。花に対する精神文化が古くから芽生えた日本では、西洋音楽に四季の風物を織り込むことに躊躇することはなかった。日本人による歌曲の題名に花を付けたのは、かの滝廉太郎が嚆矢である。彼は日本人ならではの感性を発揮し、18歳の1897年に『春の海』、1899年に『四季の瀧』を作曲している。そして、東京音楽学校(現東京芸術大学)を卒業した2年後の1900年、組曲『四季』を発表した。この曲は、日本の四季を、“雪月花”に夏の風情を加えた、「花」、「納涼」、「月」、「雪」という標題にまとめた滝の意欲作である。尚、翌年には『菊』と題された唱歌も創作しており、日本人の作曲家に花は特別なものであると感じさせる。
この組曲で最も有名な曲が、何と言っても第一番の「花」であろう。学生時代にこの歌を歌った経験のない日本人はまずいないと言ってよいほど、現在に至るまで多くの人々に歌い継がれている、日本歌曲の傑作中の傑作である。その冒頭の歌詞から、題名をよく「隅田川」などと勘違いして言う人がいるように、この曲の題名よりも歌詞のほうが耳に残るのかも知れない。いずれにせよ「花」には、音楽学校を卒業したばかりの若干21歳の滝が、西洋音楽の旗手となるべく高い志を持ち、春爛漫の隅田川を意気軒昂と闊歩する姿が反映されているかのようである。組曲『四季』を作曲した翌年、まさに人生の春を謳歌するかの如く、滝はドイツの名門ライプツィヒ音楽院に国費留学する。
滝廉太郎作曲、組曲『四季』より「花」
だが、滝の命は尽きかけようとしていた。かの地で肺結核を患い、留学からわずか一年後の1902年に帰国を余儀なくされる。そして、その翌年の1903年6月29日、永眠。23年の短い生涯であった。彼の最後の作品は『憾』という。“うらみ”と読むが、心残りという意味である。滝の目の前に広がった、誰も踏み入れたことのない西洋音楽の地平を前に、命果てようとする若い音楽家の心情はいかばかりであったであろうか。滝の数少ないピアノ独奏曲でもあるニ短調のこの曲は、悲しい旋律の中にも、日本における西洋音楽に賭けた自らの意思が交錯するようで、胸が締め付けられる。それはあたかも、桜の花びらが風に吹かれ散りゆくさまを彷彿させる。満開の桜花を歌った音楽家は、桜花が散るが如く、この曲でその短すぎる生涯を閉じたのである。
滝廉太郎作曲、『憾』
滝の後を継ぎ、歌曲、オペラ、管弦楽などの作品を数多く生み、また、オーケストラ運営においても、日本人による西洋音楽の普及に多大なる貢献をしたのが山田耕筰である。山田は、花の名前を冠した作品が多いことでも有名である。代表的なものでは、『野薔薇』、歌曲集『AIYANの歌』より、「かきつばた」と「曼珠沙華」、オペラ『あやめ』、また、直接花の名前ではないが交響詩『曼荼羅の華』、そして大変有名な歌曲『からたちの花』などがある。
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■ 戦後日本を勇気づけた『花の街』
■ 歌詞におけるヴァリエーション
※1 滝廉太郎 (1879年8月24日-1903年6月29日), 日本の作曲家。東京音楽学校卒業。明治期における西洋音楽の草分け。短い生涯の間、日本人の抒情に合う優れた作品を残し、特に多くの歌曲は今でも歌い継がれている。
※2 團伊久磨 (1924年4月7日-2001年5月17日), 日本の作曲家。交響曲、オペラ、童謡など、幅広い分野で数々の作品を残し、日本の現代クラシック界に多大な貢献を成した。殊に、オペラ『夕鶴』、『ひかりごけ』、『ちゃんちき』は有名。皇太子明仁親王と正田美智子妃のご成婚記念『祝典行進曲』や、東京オリンピックでの『オリンピック序曲』と『祝典行進曲』を手掛けた。日本芸術院会員、文化功労者。女優でタレントの團遙香は孫にあたる。
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■ 戦後日本を勇気づけた『花の街』
山田の弟子で、彼同様に多くの作品を生み出し、日本のクラシック界に多大な足跡を残したのが團伊久磨である。1967年に團が企画・出演するテレビ番組、『だんいくまポップスコンサート』が始まった。この番組は、團と共に“三人の会”を主催した黛敏郎の『題名のない音楽会』、芥川也寸志の『コンサート・コンサート』と共に、テレビにおける音楽番組のはしりである。これらの音楽番組は、音楽に目覚めかけた、四国の片田舎の少年であった私を熱心な視聴者にした。日本が今よりもずっと貧しかった1960年代。気軽に足を運べるようなコンサートは数限られ、クラシック音楽がまだまだ市民権を得ていなかったこの時代。これらの音楽番組は、特に地方の人々にとっては、音楽に親しむ数少ない機会であったと言っても過言ではない。
その中でも、私の記憶に格別鮮やかに残っているのが、白黒テレビのブラウン管(液晶が取って代わる以前のテレビの画面部分!)の向こうで、團自らが指揮を執り、コンサートホールの聴衆と共に歌った『花の街』である。毎回番組の後半に決まって歌われるその歌は、旋律の美しさと共に、歌詞に込められた叙情が子供心にも強烈な印象であった。
江間章子作詞、團伊久磨作曲、『花の街』
『花の街』は、終戦からわずか2年後の1947年、作詞家の江間章子が作った詩に、東京音楽学校を卒業したばかりの23歳の青年作曲家、團伊久磨が曲を付けたものである。このことは、滝廉太郎が『花』を作曲した事情と符合して面白い。ただ、滝が見たものは、文明の黎明期に咲き誇る希望の桜であり、團が曲を付けたのは、焦土と化した東京に花が咲き誇る、江間の求めた夢想の街であった。この背景に関して、日本抒情歌全集の解説を引用してみよう。
昭和22年の東京は空襲の残骸と戦後の混乱で、瓦礫と闇市に埃が濛々としていた。江間章子はNHK「婦人の時間」の委嘱で“今に東京にも花咲く街になってほしい”という、夢と希望を託して、この詞を書き上げた。“荒れ果てた当時の日本を見ていた私は、私の心に抱いていた幻の理想の街、神戸を頭に思い浮かべて書いた。神戸へは行ったことはなかったが、乙女心に神戸というエキゾチックな街に憧れていたのですよ”と述懐している。
(日本抒情歌全集1の解説より)
この様な経緯で作詞作曲された『花の街』は、1949年に始まったNHKラジオ『私の本棚』の番組テーマ曲として採用され、瞬く間に全国に広まって行った。
■ 歌詞におけるヴァリエーション
ここで『花の街』の歌詞を見てみたい。一番と三番の歌詞には注意が必要である。
一
七色の谷を越えて 流れて行く風のリボン 輪になって 輪になって かけて行ったよ
歌いながら かけて行ったよ
二
美しい海を見たよ あふれていた 花の街よ 輪になって 輪になって 踊っていたよ
春よ春よと 踊っていたよ
三
すみれ色してた窓で 泣いていたよ 街の角で 輪になって 輪になって 春の夕暮れ
一人さびしく 泣いていたよ
下線を引いた箇所は、人によっては違和感を覚えるのではないか。一番の下線部は、“春よ春よと”という風に歌われることが多いし、私も、例の『だんいくまポップスコンサート』で覚えた歌詞は、“春よ春よと”であったと記憶している。また、三番の“街の角で”は、“街の窓で”と歌う場合もある。この点について、作詞者は以下のように語っている。
「花の街」は、私の幻想の街です。戦争が終わり、平和が訪れた地上は、瓦礫の山と一面の焦土に覆われていました。その中に立った私は夢を描いたのです。ハイビスカスなどの花が中空(なかぞら)に浮かんでいる、平和という名から生まれた美しい花の街を。詩の中にある「泣いていたよ 街の角で・・・・」の部分は、戦争によってさまざまな苦しみや悲しみを味わった人々の姿を映したものです。
この詩が曲となっていっそう私の幻想の世界は広がり、果てしなく未来へ続く「花の街」になりました。
(教育芸術社『中学生の音楽1』平成8年1月より)
江間章子の文では、確かに“街の角で”となっている。泣いていたのが“街の窓”というのは不自然であり、文章としても確かに“街の角で”が正しい。
では、“春よ春よと”はどうであろうか?これも、日本著作権協会が作詞者に確認をとったところ、“歌いながら”が正しいとのことである(※3)。だが、この個所だけは、“春よ春よと”の方が情緒的に優れているような気がする。それは、私の記憶に刷り込まれている歌詞が“春よ春よと”であるというだけではない。歌詞の中で全く印象が異なる三番は別にして、“春よ春よと”が二番の歌詞と韻を踏んでいること。加えて、硝煙の臭いがまだあちこちに残る戦後間もない街を、まだ届かぬ遅い春を求めて流れて行く風のリボンが、人々の荒んだ心を慰め、遠い希望に向かって人々を導く象徴であることを、“春よ春よと”が一層効果的に強調するように感じるからである。歌詞におけるトリヴィアではあるが、この小作品を味わう上での予備知識としては興味深い考察ではないだろうか。
『花の街』が作られてから70年近くたった今でも、この歌が広く歌い継がれ色褪せないのは、どんな時代においても“春よ春よ”と、希望を求める人々の感性における普遍性が、この歌の中に溢れているからに相違ない。
※3 Wikipedia参照。