バレエ音楽『くるみ割り人形』(1911年原典版)(※1)
ピョートル・チャイコフスキー(1840年5月7日-1893年11月6日)作曲
「人形と音楽」と題したエッセイの前回は、早春の風物詩である雛人形から話を進め、日本が誇る人形浄瑠璃を、民俗学的・宗教史な視点から俯瞰してみた。人形は元来神の託宣を伝達する装置であり、時代が下るにつれ、過去の出来事や現世の情けを浄瑠璃に乗せて語るための仕掛けとなっていった。そこで人形が担った役割とは、人々の背後に控えた大きなメッセージを媒介する擬人としての存在であった。
この稿で紹介するのは、日本を遠く離れた西洋の人形と音楽についてである。日本における人形芝居とは異なり、西洋の人形は、神や人間の意思を伝えるメッセンジャーではなく、人形自ずからが大きな力を発揮し、人間の空想を叶える超人的な存在として位置付けられている。西洋では、人形がそのように活躍する物語があまた存在する。
■ くるみ割り人形とバレエの伝統
人形と西洋音楽と言えば、真っ先に思い浮かぶのが、チャイコフスキー作曲のバレエ音楽『くるみ割り人形』であろう。ここでは、『くるみ割り人形』を取り上げ、その成立の経緯と構成から人形と音楽を考察してみたい。
日本で第九の演奏会がピークになる12月、欧米ではこの曲が盛んに上演される。それは、バレエの原作であるドイツの作家ホフマン(※2)の手になる『くるみ割り人形とネズミの王様』が、クリスマス・イブの出来事を描いたファンタジーであることが理由である。私がアメリカに住んでいた時も、感謝祭を過ぎた頃から、街の随所に『くるみ割り人形』のポスターが張られ、クリスマスを間近に控えた12月には、小さな子供たちが両親に手を引かれてこのバレエを鑑賞に行く姿があちこちで見られたものである。
日本では、子供や女性は別にして、男性はあまりバレエを見に行く習慣がないようだが、バレエの伝統が長い欧米では、男性も正装して劇場に足を運ぶ。そして、チャイコフスキーやプロコフィエフなど、著名な作曲家が音楽を書いたバレエ公演を楽しむのが、成人男女の一つの社交儀礼=プロトコルのようになっている。バレエが、紳士淑女が楽しむれっきとした大人の芸術として認知されているのである。
■ チャイコフスキーの困難
『くるみ割り人形』は、マリインスキー劇場がチャイコフスキーに委嘱した、新作のバレエ音楽である。『白鳥の湖』に続く彼のバレエ音楽の第二作である『眠りの森の美女』は、1890年にマリインスキー劇場で初演され、好評を博していた。これに気を良くした劇場側は、すぐさまチャイコフスキーに、ホフマンの原作による新作バレエを依頼したのであった。
しかし、当時のチャイコフスキーは、創作面において様々な困難に直面していた。即ち、彼のパトロンであったフォン・メック夫人(※3)からの莫大な資金援助が打ち切られ、また、委嘱された作品が童話を下敷きにしたものであることから、そのような作品に音楽を付けることに対しては自信が持てなかったのである。まさに、弱り目に祟り目の中での作品依頼であった。加えて、海外での度重なる演奏会の予定が、彼の創作における困難に拍車をかけた。
しかし、マリインスキー劇場のバレエ監督であったマリウス・プティパ(※4)自身が台本を手掛けるなど、劇場側も最大の支援を行ったため、チャイコフスキーは重い腰を上げ、1891年から『くるみ割り人形』の作曲に取り組み始めた。注目すべきは、その年の3月に、ロシア音楽協会から新作を含む演奏会の依頼を受け、作曲中のこの作品から8曲を選んで演奏したことである。たまたま新作が手元になく、新しい作品を作曲する時間も見いだせなかったことから、作曲中の8曲を組曲としたこの作品が、有名な「花のワルツ」を最後の第8曲に擁する、組曲『くるみ割り人形』である。
華やかなダンスが印象的な、吉田裕史指揮、ボローニャ歌劇場フィルハーモニーのニューイヤーコンサートの「花のワルツ」。
■ 台本の問題-原作とバレエの比較
作曲の途中で、マリウス・プティパが病気で倒れるなど、艱難辛苦の後、チャイコフスキーはバレエ『くるみ割り人形』を完成させ、1892年12月18日にマリインスキー劇場での初演にこぎつけた。しかし、評判は大成功とは言えないものであった。それは、バレエの台本に原因があった。
そもそも、このバレエの台本は、ドイツ人であるホフマンの原作を、アレクサンドル・デュマ親子が書いた童話をベースにしている。デュマの童話は当時のロシアではよく知られたものであり、バレエのために大幅に省略されたこの物語は、ロシアの観衆にとっていささか物足りないものであったようだ。そこで、人形が活躍するこの物語を、ホフマンの原作(デュマの童話)と、プティパ=チャイコフスキーの台本で比較してみたい。少々長いが、以下原作を要約した各段落の冒頭に、それぞれ対応するバレエの場面を示した。因みに、バレエでは、主人公の女性の名前はクララとなっているが、ここでは原作通りマリーとする。
<序曲>
<第一幕:第一場>
1)情景・クリスマス・ツリー、2)行進曲、3)小さなギャロップ・新しいお客様の登場、4)踊りの情景・子供達への贈り物、5)情景・グロースファーターの踊り
クリスマスの夜、シュタールバウム家ではクリスマス・パーティーが催され、子供たちが楽しそうにはじゃいでいる。
※5 Piotr Tchaikovsky: The Nutcracker – Ballet in two acts(EuroArtsChannelより)
そこへ、ドロッセルマイヤーおじさんが、子供たちにプレゼントを持って訪れる。末娘マリーは、プレゼントとしてくるみ割り人形を選んだ。マリーは、不格好なこの人形が気に入ったが、兄のフリッツが大きなくるみを割ろうとして壊してしまう。ドロッセルマイヤーおじさんが修理したくるみ割り人形を可哀想に思ったマリーは、人形をベッドに寝かして看病する。
6)情景・お客様の退場・子供たちは寝室へ・魔法の始まり、7)情景・くるみ割り人形とネズミの王様との闘い・くるみ割り人形の勝利・そして人形は王子様に姿を変える
子供達が寝静まった真夜中、突然7つの首を持ったネズミに率いられたネズミの軍隊が現れ、くるみ割り人形が他の人形たちを指揮して戦いを始めた。そこで、マリーがくるみ割り人形軍を助けて、ネズミの軍隊は敗退した。
<第一幕:第二場>
8)情景・冬の松林、9)雪片のワルツ
<第二幕>
10)情景・魔法の城、11)情景・クララと王子とくるみ割り人形の登場、12)ディベルティスマン(チョコレート:スペインの踊り、コーヒー:アラブの踊り、お茶:中国の踊り、トレパック:ロシアの踊り、葦笛の踊り、メール・シゴンニュとポリシネルたちの踊り、13)花のワルツ、14)パ・ド・ドゥ(アダージョ、ヴァリアシオンI:タランテラ、ヴァリアシオンII:ドラジェ“金平糖の踊り”、コーダ)、15)終幕のワルツとアポテオーズ
くるみ割り人形は、勝利のお礼にと、マリーをお菓子の国へと招待した。
■ 踊りに終始する第二幕と初演の評価
第二幕は、上にあるように、“くるみ割り人形は、勝利のお礼にと、マリーをお菓子の国へと招待した”という筋書きに依るだけで、お菓子の国の情景を音楽と踊りのみで描き、全てを完結させている。この幕ではホフマンの原作は大きく割愛され、物語で情景を展開させていく代わりに、チョコレート、コーヒー、お茶、トレパック(ねじりキャンディー)といったお菓子や飲み物の精を舞台に登場させ、それぞれが特徴のある踊りを披露していく。華やかな音楽と舞踏の祭典といった印象があるこの幕は、「花のワルツ」や「葦笛の踊り」(某携帯電話会社のCMでお馴染み)を始めとした、チャイコフスキーの有名な旋律が醍醐味である。やはり、チャイコフスキーは、童話をモチーフにした作品に音楽を付けることが苦手であったため、物語性の強い部分を大きく省略し、音楽を前面に出せるような台本にするため、プティパに対して要望を出したのではないかと想像できる。天才ベートヴェンもオペラは一作しか残さなかったように、異才チャイコフスキーも童話には苦手意識があったのかもしれないと思うと、逆に何故か親しみを感じてしまう。
しかし、第一幕から通してみた際、物語の展開としては唐突な感じが否めず、全曲を通じて主題が曖昧であるという理由で、初演の評価はあまり芳しいものではなかった。従って、振付けや演出も定番と言ったものがなく、その自由度が極めて大きいため、現在でも新趣向による演出や振付が試みられる結果となっている。
※アイデアニュース有料会員(月額300円)限定部分には、チャイコフスキー=プティパがバレエ音楽『くるみ割り人形』で省略している部分、ホフマンの原作『くるみ割り人形とネズミの王様』に書かれたくるみ割り人形の秘密を解き明かす部分について説明しています。音楽さむねいる(21)「人形と音楽(3)」は、ストラヴィンスキーのバレエ『ペトルーシュカ』についての解説で、3月12日に掲載する予定です。
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■ 省略された物語
■ 初めてのチェレスタ
■ クリスマスの風物詩へ
- 音楽さむねいる:(23)不思議な番号“8” (2)ドボルザークの交響曲第8番 2017年6月8日
- 音楽さむねいる:(22)不思議な番号“8” (1)ベートーヴェンの交響曲第8番 2017年5月30日
- 音楽さむねいる:(21)人形と音楽 (3)ストラヴィンスキーのバレエ『ペトルーシュカ』 2017年3月12日
- 音楽さむねいる:(20)人形と音楽 (2)チャイコフスキーのバレエ『くるみ割り人形』 2017年3月11日
- 音楽さむねいる:(19)人形と音楽 (1)人形浄瑠璃の世界 2017年3月11日
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■ 省略された物語
以下はバレエで省略されている箇所である。一見、大変重要な主題が提示されていることに気付くであろう。ここは、くるみ割り人形の秘密を解き明かす大変重要な部分であり、物語の大きな盛り上がりを形成している。そして、もしチャイコフスキー=プティパが、ここをバレエに取り入れていたなら、恐らく、全てのダンサーが舞台に集い、大団円で幕となるべき場面である。
このような重要な個所を大胆に省いた理由は、先に述べたように、プティパの健康上の理由と、童話に音楽を付けることに対するチャイコフスキー自信の無さであったのではないか。長大な原作を全て網羅しようとすると、作曲に要する時間は恐らく一年では終わらなかったであろう。1877年3月に初演された『白鳥の湖』が不評に終わり、それから13年も経た1890年1月に初演された『眠れる森の美女』が好評であったことから、劇場側は、その次の年に第三弾のバレエを完成させたかったに違いない。劇場側の論理がプティパとチャイコフスキーを駆り立て、原作の後半部分を省略することで、二人を興業と創作において妥協に至ったというのは、少々うがちすぎた見方であろうか。
マリーが目を覚ますと、母親が事の顛末を話してくれた。それによると、マリーは人形と夜中まで遊んでいると、不意にガラス戸棚に腕を突っ込んでけがをしたという。マリーが、そのことをドロッセルマイヤーおじさんに話すと、おじさんは一つの話を聞かせてくれた。
その昔、ネズミの呪いによって醜くされた、ピルリパートというお姫様がいた。しかし、時計師のドロッセルマイヤーとその甥によって、呪が解かれ、お姫様は元の美しい姿に戻ることができた。しかし、今度は甥のドロッセルマイヤーがネズミの呪いを受け、醜い姿に変わってしまった。
その後、毎晩ネズミの王様が現れ、マリーにお菓子や洋服をねだり、マリーを困らせた。マリーはくるみ割り人形に事の顛末を話すと、くるみ割り人形は、ネズミの軍隊と戦うために、おもちゃの剣を要求した。
その夜、マリーの元にくるみ割り人形が現れ、もらった剣でネズミの軍隊を破ったことをマリーに告げた。そして、お礼にとマリーを人形の国へと招待した。
マリーはその夢のような情景を家族に話すが、信じてはもらえず、ドロッセルマイヤーおじさんが甥を連れてきた。そして、彼は、自分こそがネズミに呪いをかけられ、くるみ割り人形に変身させられていたドロッセルマイヤーであり、今は人形の国の国王であることを告げた。そして、自分を救ってくれ、元の姿に戻してくれたマリーを、お妃として人形の国に迎えたのであった。
■ 初めてのチェレスタ
チャイコフスキーが、それでもこの曲の完成に意欲を繋いだのは、一つの楽器の存在が大きかった。彼は、第二幕の(3)ヴァリアシオンII:ドラジェ(金平糖の精の踊り)で、夢の国のプリンセスが踊る、可憐な曲を奏でる楽器に頭を悩ませていた。彼は、フランスで見つけたチェレスタという楽器に魅せられ、この可愛らしく、清々しいその踊りを表現させることを思いついた。イタリア語でceleste(“天”、“天国の”)を語源とするこの楽器は、パリの楽器制作家、オギュスト・ミュステルが発明したもので、ピアノと同じ鍵盤が金属製の板を叩くことによって音が鳴る仕組みである。音を出すのが金属板であるから、その音色は清らかに澄み、天井の音楽を奏でるような響きが特徴で、まさに、チャイコフスキーがイメージした、夢の国のプリンセスの可憐な踊りを音楽で表すにふさわしいものであった。
チェレスタは、今では、数多くの名曲に取り入れられ、親しまれている楽器である。チェレスタが活躍する名曲には、ベーラ・バルトークの『弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽』、グスターヴ・ホルスト(※6)の『惑星』、グスタフ・マーラーの『交響曲第6番』、『大地の歌』などがある。しかし、チェレスタを管弦楽曲の演奏に使用したのはチャイコフスキーの『くるみ割り人形』が初めてで、その意味で、彼は、チェレスタという、今ではポピュラーな楽器を初めて紹介した作曲家としての名声も得たのである。
■ クリスマスの風物詩へ
『くるみ割り人形』の舞台が、クリスマスを楽しむ一家庭という設定から、12月のクリスマス・シーズンにはこのバレエが上演されることが欧米では一般的になったのは、冒頭に述べたとおりである。しかし、近年日本でもその伝統が一般化しつつあり、バレエ全曲や、その中の8曲を抜粋した(最初に完成した8曲をまとめた)組曲が演奏される機会が多く見受けられるようになってきた。その意味で、この曲を演奏するコンサートは、わが国でも冬の風物詩となってきた感がある。
人形を主役としたこのバレエは、その幻想的で冒険的な物語の展開から、あまたの少年少女を虜にしてきた。ネズミの軍隊と戦うおもちゃの人形の物語は、彼ら・彼女らの夢を託したアドヴェンチャーであり、呪いをかけられたくるみ割り人形が、実は人形の国の王子様であったというくだりは、登場人物の王子や王女が魔法使いなどによって呪いをかけられ、動物や人形などの“非人間”に変身する、西洋の神話や伝承物語によくみられる“貴種変貌譚(Koichi Kagawaによる名彙・呼称)”をモチーフとして踏襲している。
このように、人形がファンタジーの主役となる物語は日本の人形劇の伝統とは異なる点であり、人形が外部からのメッセージを伝えるといった“触媒”としての役割ではなく、自らの意思で物語の展開に大きな役割を果たしている。そして、人形劇を台本にした音楽の代表作であり、クリスマスの風物詩となったチャイコフスキーの『くるみ割り人形』は、その美しい旋律で、今でも少年少女の夢と冒険しいを掻き立てる名曲である。
※1 “The Nutcracker” (Peter Tchaikovsky)
※2 Ernst Theodor Amadeus Hoffmann (1776年1月24日-1822年6月25日), ドイツの作家、作曲家、法律家。
※3 Nadezhda Filaretovna von Meck (1831年1月29日-1894年1月1日) , ロシアの資産家でチャイコフスキーのパトロン。ドビュッシーを娘のピアノ教師として雇ったことでも有名。
※4 Marius Petipa (1818年3月11日-1910年7月14日), 舞踏家、振付師、台本作家。マリインスキー劇場のプリンシパル・ダンサーから出発し、同劇場のバレエ監督として、チャイコフスキーの三大バレエを始めとする作品を数多く手掛ける。クラシック・バレエの基礎を築いた人物。
※5 Piotr Tchaikovsky: The Nutcracker – Ballet in two acts(EuroArtsChannelより)
0:00 Act I
29:39 Act II
52:08 (Prelude to) Act III
Dances in Act III:
55:58 Spanish Dance
1:02:29 Eastern Dance
1:07:12 Chinese Dance
1:08:36 Trepak (Russian Dance)
1:09:59 Pas de trois (Dance of the reed pipes)
1:13:38 Waltz of the Flowers
1:21:05 Pas de deux – Intrada
1:27:57 Pas de deux – Tarantella
1:29:05 Pas de deux – Dance of the sugar plum fairy
1:31:31 Pas de deux – Coda
1:33:32 Final Waltz and Apotheosis
※6 Gustav Holst (1874年9月21日-1934年5月25日), イギリスの音楽教育者、作曲家。代表作は組曲『惑星』。