音楽さむねいる:(10)“よしこの節”と“ぞめき” ~阿波踊りのBGM~

Koichi Kagawaの 音楽さむねいる
連載:音楽さむねいる(10)

今年の夏はリオデジャネイロ五輪で盛り上がりそうだが、リオと言えば世界的に有名な“リオのカーニバル”がある。開催週は毎年異なるものの、毎年2月から3月にかけて、ある週の土曜日から翌週火曜日まで、観客とパレード参加者合せて約40万人がこのカーニバルの熱狂に酔いしれる。2月から3月と言えば、地球の裏側のリオデジャネイロではまさに夏真っ盛り。この熱い夏のイベントには、世界中から約90万人の観光客が訪れるそうだ。

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■徳島夏のカルナバル

私の故郷は徳島県であるが、徳島の夏も負けてはいない。毎年旧盆の8月12日から15日にかけての4日間、徳島市が踊りのるつぼと化す“阿波踊り”がある。編み笠を前傾に被り、両手を高く掲げて優雅に踊る女踊りに、腰を低く落とし、団扇を巧みに振り回して豪快に踊る男踊り。それらの踊り子が約10万人、観客動員数がのべ100万人を超え、その内、県外からの観光客数が60万人以上と、規模で言えばリオのカーニバルと肩を並べるほどの祭りが繰り広げられる。徳島市の人口が約26万人と、リオデジャネイロ市の人口約632万人の二十四分の一ということを考えると、大変な規模のお祭りであることが理解できよう。従って、阿波踊りは徳島で生まれ、日本が世界に誇る夏の一大“カルナバル”だと私は思っている。

■夏を告げる鳴り物の音

徳島っ子は、大体梅雨入りの声を聞くや否や浮足立ち、「今年の阿波踊りはどの“連”(※1)がいっきょい(勢い)がええじゃろか」とか、「あの○×さんく(お宅)の何とかちゃんは、今年が阿波踊りの踊りぞめじゃわな」などと、阿波踊りにまつわることが話の端々に上がるようになる。それと同時に、徳島の古い街々では鳴り物の稽古が始まり、しっとりとした三味線の音色が雨に交じって流れ来て、それは良き風情を醸し出している。

私の実家は、さだまさし氏の小説『眉山』の舞台となった、その眉山(びざん)の麓にある。市街地にある山としては珍しく、原生林が生い茂る稜線が南北に伸び、それが急に鋭角的に落ち込んだ麓には、数多くの古びた社寺が立ち並んでいる。役行者が修業したと伝えられるその界隈は、いまだに深山幽谷の雰囲気を湛えている。しかし、そこから一歩足を踏み出すと、その昔芸妓を500人以上も抱えた遊郭の跡地が広がる。実家の近くにあるその場所には、大時代な唐破風を頂く玄関がある家が今も何軒か残っている。私が小学生の頃、夏の夕暮れ時にその傍を通りがかると、家の前に置いた縁台の上で上半身をはだけ、団扇で涼を取る老婆が何人もいたのを覚えている。そこが、昔の揚屋の名残りであったことは随分後年知ったのだが、弛んだ胸を露わにし、しわがれた声で話をするその老婆達が、子供心に何か凄まじい光景として映ったものである。そして、その奥からは芸妓さん達がさらう阿波踊り三味線の音が聞え、今年も踊りが近いことを教えてくれた。

元来、徳島というところは芸事が盛んな土地である。江戸時代の人々が好んで着た藍染の着物の染料である藍、所謂“ジャパン・ブルー”の全国市場を支配した徳島藩の豪商達が、夜な夜な豪遊をし、江戸や大阪から商売に訪れた取引先の接待のために、自然とお座敷芸が磨かれたという歴史がある。また、大阪を中心とした地域の伝統芸能である人形浄瑠璃も盛んで、当然義太夫節も流行したようだ。また、人形浄瑠璃の人形=木偶(でこ)の頭(かしら)の一大産地としても有名である。そのような背景を持つ土地柄だけに、三味線や唄いなどを稽古をする音がどこからともなく聞えて来て、実に趣のある街なのである。

■歌としての“よしこの節”

そんな中、徳島っこに一番馴染のある音曲は、やはり阿波踊りの歌である“よしこの節”と、そのお囃子の“ぞめき”であろう。阿波踊りと言えば“踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿保なら踊らにゃそんそん”という、あの有名な歌詞が思い出されよう。少々長いが引用してみよう。

~ ハァアラ エライヤッチャ エライヤッチャ ヨイ ヨイ ヨイ ヨイ

踊る阿保に見る阿呆 同じ阿保なら 踊らにゃそんそん

新町橋まで行かんか来い来い

ハァアラ エライヤッチャ エライヤッチャ ヨイ ヨイ ヨイ ヨイ

阿波の殿様蜂須賀様が 今に残せし阿波踊り

ハァアラ エライヤッチャ エライヤッチャ ヨイ ヨイ ヨイ ヨイ

笹山通れば笹ばかり 大谷通れば石ばかり

イノシシ豆喰うて ホウイ ホイ ホイ

笛や太鼓のよしこのばやし 踊り尽きせぬ阿波の夜

ハァアラ エライヤッチャ エライヤッチャ ヨイ ヨイ ヨイ ヨイ

ひょうたんばかりが浮きものか 私の心も浮いてきた 浮いて踊るは阿波踊り

ハッ ヤットサー ヤットヤット ~

※下線部は唄の部分。その他は唄ばやし。

これは所謂“正調よしこの節”と言われているものであるが、この他に、唄囃子と掛け声の様々なヴァリエーションがあり、これぞ唯一無二の“よしこの節”というものは存在しない。この歌は、それぞれの連によって違った歌詞のラインナップがあり、また、歌い方やテンポも連によって異なっている。

“よしこの節”の由来について、『デジタル大辞林』には次のように書かれている。

江戸後期に流行した俗謡。潮来節(いたこぶし)から出たといわれ、七・七・七・五の4句の歌詞で、内容・形式は都々逸(どどいつ)に似る。曲名は囃子詞(ことば)の一節から。節の起源は、舟唄であった“潮来節”がお座敷歌に変化したものであるとされる。

都々逸に似ているという指摘であるが、それは逆であり、初代都々逸坊扇歌が、江戸末期に上方で流行っていた“よしこの節”を基に、その七・七・七・五の形式を取り入れて完成したのが都々逸である(この経緯はウィキペディア「都々逸」の項に詳しい)。いずれにせよ、古来の短歌・和歌の五・七・七・五・七・七、俳句の五・七・五という音律に類似したリズムに、昔の人々は日々の労働の苦しさや豊穣の祈り、あるいは、恋愛の情を託し、ささやかに歌い繋いできたのであろう。だからこそ、この歌の形式が普遍性を持ち続け、日本の各地に伝播して行ったのではないか。

■伴奏としての“ぞめき”

“よしこの節”が阿波踊りの歌なら、伴奏の部分は“ぞめき”である。“ぞめき”とは“騒き”と書き、人が騒ぐことを意味する“ぞよめき”に通じ、喧噪や騒々しいことが転じて、人が浮かれ騒ぐことを意味する。“よしこの節”が、踊り手を動機づけるものであるとすれば、“ぞめき”はまさに踊り手を駆り立てるにふさわしい、非常に豪快な音楽を提供する。阿波踊りは、“よしこの節”と“ぞめき”の、静対動の対照のダイナミズムによって成り立っていると言えよう。

“ぞめき”を演奏するのは、旋律を受け持つ篠笛と三味線、そして、パーカッションである鉦(かね)、大太鼓、締め太鼓(肩から吊り下げる和太鼓)、鼓である。太鼓、締め太鼓、鼓はバチで鳴らし、鉦は撞木(しゅもく)という、小さな叩き木が付いた細い棒で鳴らす。連によってこの鳴り物の構成は異なり、“学生連”などは鳴り物を借りて調達するため、自ずとその数には限界がある。しかし、半プロになると、大太鼓だけでも5つ以上動員する“連も”多い。阿波踊りに参加する連の数は、半プロ・アマを合せると1,000を超える。大太鼓に限って言えば、それらの連が一晩で鳴らす大太鼓の数は、一つの連に平均5台として、5,000以上の大太鼓が一斉に鳴る計算である。繁華街から少し離れた私の実家でも、阿波踊りが始まると、大太鼓の音が足の下から地響きのように鳴り聞こえてきたものである。従って、私にとって“ぞめき”とは、耳で聞くものではなく、足で感じるものだという印象の方が強い。それだけ、迫力のある音楽なのである。

また、“ぞめき”は基本四拍子の曲であるが、途中で一小節だけ五拍子のリズムが現れる箇所がある。そこを挟んで、また四拍子に戻り、それを繰り返していく。加えて、テンポも自在に変化し、最初はあたかもウォーミング・アップをするかのようにゆっくりと滑り出すが、一旦興が乗ってくると、四拍子を刻んでいた鳴り物が一斉にツー・ビートを打ち、パーカッションの鳴動甚だしく、街中が数十万人の総ディスコと化すのである。そして、また再びゆったりとしたテンポに戻り、鉦が“シャンシャンシャン、シャシャンのシャン”という音で終了する。

阿波踊りでは、総勢300人以上が一斉に踊る大所帯の連もあり、先頭と後方の距離が長く、後ろにいる鳴物群の音が前方には聞えづらいという問題も生じることがある。そのような場合に活躍するのが鉦である。鉦は、“ぞめき”の緩急をつける時や、テンポを前方に伝える役割を担う。その鳴り方一つで、踊りの場面が変わったり曲が終了したりするため、鉦は、連というオーケストラを引っ張る指揮者のような性格の鳴り物である。

<比較的正調な”ぞめき”>

<テンポよく演奏する”ぞめき”>

※1 踊りのグループの一単位。現在33の“半プロ”の連があり、普段は定職を持っている人々が共通の趣向を持つグループを形成し、日夜踊りの鍛錬をしている。その他徳島内外の企業や学校の連、また、サークル的な性格を持ったものなど、無数に存在する。

<2016年の阿波踊り情報>(徳島県・徳島市観光協会のページ)
徳島市の阿波踊りの情報など
徳島市以外の情報はこちら
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■ところで、“徳島って知ってる?”

■「へぇー、阿波踊りって徳島にもあったんだ」の衝撃!

■ 阿波踊りの興隆の陰に二人の貢献者

■“阿波よしこの節”の第一人者

■全国有数の庶民の祭り

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■ところで、“徳島って知ってる?”

ここで、阿波踊りの“本場”徳島の話を少し。そもそも、阿波踊りは知っていても、徳島という名前にはピンとこない人が多いのではないだろうか。それは、ブランド総合研究所が行った「地域ブランド調査2015」の結果にも表れている。その中で徳島県の占める位置は、47都道府県中37位。これでも急激に上昇した方で、2012年に41位、2013年と2014年は共に43位と、常に低空飛行を続けている。

地元の特産物を見てもその傾向がうかがえる。即ち、徳島県を代表する、“すだち”、“鳴門わかめ”、“和三盆”、“春夏人参”、“つまもの(和食に添える装飾用の葉っぱ)”などは、出荷量で言えば全国有数であり、“すだち”や“春夏人参”に至っては生産量全国一位。特に徳島と言えばこれにとどめを刺す“すだち”は、全国シェアほぼ100%のつわものである。しかし、一歩徳島を離れると、それらが、徳島県となかなか結び付かないという声をよく聞く。私の分析であるが、その理由は以下の3つに集約されよう。

(1)徳島を代表する物産は、食品等に限って言えば、決して主食にならないものばかりである。

(2)他県の物産に類似のもの、あるいは強力な代替物が存在する。

(3)の存在によって“徳島産”というブランド・イメージが希薄化してしまう。

(1)は、上記の特産物を一目見れば納得がいくであろう。全て主食に対する添え物か、隠し味としての存在しかない。その極め付けが“つまもの”である。和食には欠かせないこの“つまもの”は、市場の8割以上を徳島県が占めるが(※2)、いかんせん食品ではないため、添え物の地位に甘んじている。(2)に関しては、“すだち”には“かぼす”や“シークヮーサー”、それに“ゆず”と、ライバルの柑橘類が多数存在する。従って(3)のブランド・イメージでは、“かぼす”の大分県、“シークヮーサー”の沖縄県、“ゆず”ではお隣の高知県が強力なブランドをそれぞれ構築している。そして、“鳴門わかめ”に対しては“三陸わかめ”や“韓国わかめ”が、“和三盆”は香川県が知名度では先行している。

また、“野沢菜”と言えば信州であるが、実は冬の“野沢菜”のほとんどが徳島からの移入である。加えて、浜松のウナギの養殖も、その稚魚である“しらすウナギの”一大産地は徳島の吉野川河口、京都の初夏夏を彩る鱧も徳島産が幅を利かす。これらのことは、それらブランドを誇るご当地にも、徳島県にもあまり知られていないようである。これは、“軒を貸して母屋を取られる”の諺が示す通り、生産はすれどもブランドはよその県に持っていかれるという、極めてお人好しな県民性の成せる業なのかもしれない。

■「へぇー、阿波踊りって徳島にもあったんだ」の衝撃!

こと特産物に限っても、このようなブランド力の無さが際立つ徳島であるが、誰しも認める日本を代表する大夏祭りの一つ、阿波踊りさえもそのブランドに危機が訪れて久しい。現在多くの阿波踊りが、全国各地の商店街の夏祭りや地元のイベントで踊られている。その数は、東京近郊だけでも、有名な高円寺阿波踊りや神楽坂阿波踊りを始めとして、目黒銀座、経堂、下北沢、大塚、大和、新座、南越谷、三鷹、小金井、川崎など、20から30の阿波踊りが存在しており、それぞれの町の目玉になっている。しかし、そんな各地の阿波踊りに、本場徳島から“徳島○×連”という竿提灯を先頭に踊り子達が踊り込んでくると、どこからともなく「へぇ~、徳島にも阿波踊りがあるんだ」などという声が聞こえてくる。その都度、「冗談じゃない。徳島が本場阿波踊りの発祥の地だっ!」と言い返したくなる。もっとも、若い世代には、“阿波”が徳島の旧名であるということに対する認知度が極めて低いこともあり、ある意味仕方がないのかもしれない。

阿波踊りが全区の夏祭りに普及し、人々に親しまれているのはまことに嬉しい限りだが、徳島県人は、このように有名な地元のイベントに対して、ブランドの保持にはあまり熱心ではなく、“阿波踊り”=徳島が本場、というアピールがいささか足りないようだ。これも、“軒を貸して母屋を取られる”式のお人好しの結果だと、情けなくなってしまうのである。感心するほどの、実に大らかな県民性である。

■阿波踊りの興隆の陰に二人の貢献者

そのような嘆き節はともかくとして、阿波踊りが夏の大イベントとして、これほどまでに商業的に成功してきたのはさほど遠い話ではない。これには、二人の伝説的な人物の貢献があった。一人は、初代阿波踊り実行員会委員長の楠才之丈氏(1917年6月21日-2003年3月23日)(※3)。もう一人は“お鯉さん”こと、多田小餘綾(こゆるぎ)さん(1907年4月27日-2008年4月6日)である。

楠氏は、一地方の盆踊りにしか過ぎなかった阿波踊りを、その抜群の商業的センスによって一躍全国区にのし上げた仕掛け人である。阿波踊りの由来は定かではないが、冒頭に紹介したお座敷芸から発展したという説の他に、祖先や新仏の魂供養のための念仏踊りと盂蘭盆会が一体化したという説、また、雨乞いの踊りが転化したという説がある。また、時代が下がって出戸時代初期、徳島城竣工の際に、阿波藩主蜂須賀家正公(一説には嫡男至鎮公とも)が城下に触れを出し、町民に無礼講にて好き勝手な踊りを許したことがきっかけだとする説(蜂須賀入城起源説)がある。それに、江戸末期に各地で民衆が“ええじゃないか”という掛け声と共に町中を踊り歩いた、俗に言う“ええじゃないか騒動”の影響も指摘される。いずれにせよ、かつては宗教色の強い踊りであったものが、江戸時代からは庶民の娯楽・遊芸の要素が強くなり、現在に至っているのが阿波踊りである。

阿波踊りは昔、と言っても昭和の初期くらいまでは、郷土色の強い“徳島の盆踊り”的な存在でしかなく、徳島の盆行事としては最大ではあったものの、全国にその知名度が浸透するまでには至らなかった。それが、楠氏が阿波踊り実行委員長として采配を振るった昭和30年代には、観光行事としての体裁が整っていった。かつては、街を流して踊って行くだけの形であった踊りが、市内の数か所に設けられた大きな桟敷席の観客に披露して踊る、まさに“見せる”踊りに変貌していったのである。また、連の組織化が進み、かつては“○×町の組”と呼ばれていたものが、その地域性を解き放ち、ある種の連帯意識で結ばれたグループとして再編成されていった。そして現在、それぞれの連では、その踊りの趣向、男踊り・女踊りの振り付け、鳴り物の性格、浴衣地や竿提灯の色や模様に工夫を凝らし、観客はご贔屓の連の踊りに喝采を送るのである。

■“阿波よしこの節”の第一人者

もう一人の貢献者“お鯉さん”は、昭和6年に日本コロムビアから出た“よしこの”のレコードが評判になり、“阿波よしこの節”が全国に知れ渡るきっかけとなった功労者である。

お鯉さんは、大正9年(1920年)に芸妓“うた丸”として徳島でお披露目し、以来力のある三味線と歌で徳島の芸事を牽引してきた。しかし、“阿波よしこの節”を現在のような形にしたのは、多分に偶然であったらしい。昭和6年のレコードの録音中、偶然“ハァアラ エライヤッチャ エライヤッチャ ヨイ ヨイ ヨイ ヨイ”と囃子を入れたところ、これが“阿波よしこの節”にたいそう良く合い、そのまま収録されることになった。このレコードが、折からの民謡ブームに便乗する形で発売されると同時に、瞬く間に“阿波よしこの節”が全国に広まった。現在恐らく誰でもが知っている阿波踊りのこの名調子は、お鯉さんの業績によるものなのである。

お鯉さんは、2008年に100歳で亡くなるまで、テレビやラジオ番組にしばしば出演し、その艶のある歌声を披露し続けた。まさに、阿波踊りになくてはならない人であった。私も実際にその歌声を聴いたことがあるが、何ともしっとりとして、小学生の時に家の近くから聞えてきた芸妓さん達の三味線の音色と符合し、私の故郷の“音の”想い出として、今も私の心に響き続けているのである。

■全国有数の庶民の祭り

そもそも、阿波踊りが何故これほどまでに全国で踊られているのであろうか?それは、その趣旨や由来が全く明らかではないが、一貫して庶民が作り上げた庶民のための踊りであったからではないか。阿波踊りは、東京の神田祭、三社祭や山王祭、大阪の天神祭り、京都の祇園祭、福岡県の博多祇園山笠などの、神社の神事としての大祭、所謂“お上”、“公”の祭りとは違い、権力とは全く無縁の庶民が自ずからの裁量や力で作り上げ、引き継ぎ、盛り上げてきた祭りだということである。当時の阿波藩によるたびたびの取り締まりにも屈せず、民衆が守り抜き、発展させたその普遍性が、世界有数の夏祭りとして今日の隆盛に繋がっている。

この記事を書いている現在、“本場徳島の”阿波踊りまであと一か月を切ってしまった。今年も徳島市は、熱い夏の夜に踊り狂う老若男女の姿で埋め尽くされるであろう。あの耳をつんざくような“ぞめき”のダイナミックなリズム、しっとりとした“阿波よしこの節”の歌回し。そして、それに乗って踊り狂う人々- 徳島の夏はいよいよ本番を迎える。

※2 典型的な限界集落であった徳島県上勝町で起業した“葉っぱビジネス”。IT機器を駆使し、高齢者が“つまもの”である葉っぱを栽培・採集し、市場を創生し、消費者であるマーケットや料亭などに出荷する体制を確立。株式会社いろどりが運営している、高齢者主体のこのビジネス・モデルは日本のみならず世界から注目を集めている。

※3 楠氏の長男楠恒男氏は、徳島県立城南高校の同級生であった安藝清氏とともに英会話学校“アンビック”を徳島市に設立している。これが、英会話学校“ジオス”(2010年経営破綻)と “イーオン”(代表取締役安藝清)のルーツである。因みに、安藝清氏は、シンガー・ソングライターのアンジェラ・アキさんの父親である。

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