音楽さむねいる:(14)ロシアン・メランコリック・スウィートの系譜 (2)私的・体制的苦悩が生み出す情調

Koichi Kagawaの 音楽さむねいる
連載:音楽さむねいる(14)

『交響曲第二番』より「第三楽章」(1908年)

セルゲイ・ラフマニノフ(※1)(1873年4月1日-1943年3月28日)作曲

『交響曲第五番』より「第三楽章」(1937年)

ドミトリ・ショスタコーヴィチ(※2)(1906年9月25日-1975年8月25日)作曲

Koichi Kagawa の 音楽さむねいる

Koichi Kagawa の 音楽さむねいる

■ 六本木のジャズ・バー、マデュロにて

六本木のグランド・ハイアット東京の4階にあるバー、マデュロ(Maduro)。ここでは毎晩ジャズの生演奏が繰り広げられている。雨上がりの金曜日の夜、無性にジャズが聞きたくなり、仕事帰りに久々に立ち寄ってみた。いつものように、ピアノのサイモン・コスグローブ、ベースのポール・ダウヤー、ドラムのデニス・フレーゼが、オフ・ヴォーカルの演奏を繰り広げている。軽快なリズムにのって、仕事の疲れを癒すべく、リオ・オリンピックに因んでパッション・バチーダで喉を潤す。パッション・フルーツとビンガのハーモニーが滑らかな酔い心地を誘う。

見渡すと、時間が早いせいか空席が目立つ。こんなマデュロも良いものだとカクテルグラスを口に運ぶと、トリオが耳に心地よいメロディーを演奏している。聞き覚えのある曲。多分『Never Gonna Fall in Love Again』のヴァリエーションであろう。『Never Gonna…』と言えば、ラフマニノフの『交響曲第二番』第三楽章をモチーフにした名曲である。私が次に“ロシアン・メランコリック・スウィート”の系譜として紹介しようと考えていたのが、まさにこの曲である。それが、今夜こんなジャズ・バーで聴けるとは!これは偶然ではなく必然かも知れないと、このコラムの続編を書くに意を強くした次第。

ということで、前回に引き続き“ロシアン・メランコリック・スウィート”の系譜ということで、今回は日本人が大好きな作曲家、ラフマニノフの『交響曲第二番』第三楽章、そして、その系譜を引き継ぐものとして、ショスタコーヴィチの『交響曲第五番』第三楽章を取り上げたい。

■ 『交響曲第一番』の失敗からの脱出と『ピアノ協奏曲第二番』

ラフマニノフは史上有数のピアニストであり、卓越した技巧によって数々の名演奏にその名を残した。また、指揮者としても重要な存在であり、ボリショイ劇場のオペラ指揮者としても活躍している。しかし、ラフマニノフが作曲家として確固たる名声を得たのは、やはり『ピアノ協奏曲第二番』であろう。ショパン、リストと並ぶピアノ曲作家として、彼はこの曲で後世に名を残すことになるが、強烈な“ロシアン・メランコリック・スウィート”が顕示されるのは、その第二楽章である。

1897年、ラフマニノフ最初の交響曲である第一番の初演は惨憺たるものであり、批評家や他の作曲家からは酷評が浴びせかけられた。この失敗によって、ラフマニノフは鬱状態と深刻な自信喪失に陥り、創作活動から一時身を引くことを余儀なくされた。2年後、ロンドン・フィルハーモニック協会から『ピアノ協奏曲第二番』の作曲を依頼されるも、不安定な精神状態は解消されなかった。しかし、1900年にニコライ・ダーリ博士の催眠療法を受け始めると精神衰弱は快方に向かい、第二楽章から書き始めたこのピアノ協奏曲は、一年後の1901年に完成を見た。作曲者自らがピアノを演奏した初演は大成功を収め、彼は見事に楽壇復帰を果たすことができたのである。ラフマニノフの、そしてクラシック音楽全体の不朽の名作『ピアノ協奏曲第二番』がいかに人気を誇る曲であるかは、その美しい旋律が現在に至るまで、数々の映画音楽やポピュラー音楽、TVコマーシャルに引用され続けていることから理解されよう。

■ 『交響曲第二番』~つかの間の幸福と大戦前夜の狭間で~

さて、本題の『交響曲第二番』であるが、これは、『ピアノ協奏曲第二番』の成功に自信を回復したラフマニノフが、ナターリア・サーチナとの結婚と、続く二子の誕生という、私生活においても幸福で安定した時期に書いた作品である。しかし、この作品が作曲された時代のロシアは、対外的には日露戦争での敗戦、対内的には“血の日曜日”事件(※3)などの混乱が見られ、国の形が大きく変化しようとする時期と軌を一にしている。1914年に第一次世界大戦へ参戦した後、長引く戦争によって国内経済は混乱・低迷を続け、食糧不足から各地でストライキが多発するようになる。そして、1917年の十月革命に続くロマノフ朝の崩壊、1922年のソヴィエト連邦誕生へと、この国を支配する運命の歯車はめまぐるしく回転していく。このような国内の政情不安を避けるため、ラフマニノフは1906年から1907年にかけてドレスデンに滞在し、この曲を完成させた。

第四回の「音楽と光」でも書いたが、フランスではこの頃、ベル・エポック(古き良き時代)と呼ばれる文化が、第三共和制の下で最盛期を謳歌していた。ブルジョワジーと呼ばれる中間層たちがその文化の担い手となり、芸術家たちはこの時代の空気を呼吸しつつ、新しい表現を目指して試行錯誤を繰り返していた時代である。私は、ラフマニノフの『交響曲第二番』の第三楽章を聴くたび、大戦前夜の東西ヨーロッパに芽生えた文化の存在を強く感じる。それは、甘く、かつ、ある種のすえた“匂い”をも連想させる、どこか妖しく危うい光の支配する世界である。またそれは、光の燦めきが一瞬空を黄金色に染めるに見えたかと思うと、瞬く間に闇に落ちてしまうような儚い運命にもある。

パリではドビュッシーやラヴェルが、後に印象主義と呼ばれる新しい芸術作品を生み出していたが、ロシアでは、音楽に新機軸をもたらすような芸術運動は起こらなかった。反対に、伝統的なヨーロッパの音楽を指向するロシア音楽協会派(※4)と、ロシア民族音楽を創作の基軸に置いた国民楽派が対峙していた。前者は、ロシア初の音楽院であるモスクワ音楽院とサンクト・ペテルブルグ音楽院を設立し、ドイツの音楽教育をモデルとしたカリキュラムにより、ロシアの音楽界を担う人材の育成に乗り出した。バラキレフはこの方針に真っ向から対立し、“五人組”を組織して国民楽派を率いることになる。ロシア音楽協会のサンクト・ペテルブルク音楽院で学び、また教鞭をとった作曲家にチャイコフスキーがいる。そして、彼を規範として、後期ロマン派の音楽造りを継承した作曲家の一人がラフマニノフである。

■ 交響曲におけるアダージョの最高傑作

交響曲におけるアダージョの最高傑作ラフマニノフの『交響曲第二番』の第三楽章は、このような時代を背負った彼が、極度の精神衰弱から復帰し、一時の平穏を得た時期に書いた作品だけに、その比類なき美しさが秀逸な緩徐楽章となっている。この楽章は、“アダージョ”を題名にしたバーバー(※5)の『弦楽のためのアダージョ』(※6)と、“アルビーノのアダージョ”と呼ばれるジャゾット(※7)の『アダージョト短調』(※8)の二つの“非交響曲”を除いて、マーラー(※9)の『交響曲第五番』第四楽章(※10)と共に、交響曲におけるアダージョの最高傑作だと私は考えている。この曲は、後期ロマン派的な調性を身にまとい、全編に散りばめられた“ロシアン・メランコリック・スウィート”の香りが沸き立つ作品である。

第三楽章の冒頭、弦楽器が優しく甘い感傷を湛えた短い導入部を演奏すると、この極めて美しい旋律に人は心を揺さぶられるであろう。続いてクラリネットが哀愁漂う詩情豊かな旋律をゆっくりと歌うと、オーケストラ全体が導入部の主題を盛り上げ、頂点を形作っていく。そして、木管楽器がオーケストラとの対話を繰り返す中で、曲は更なる頂点へと昇っていく。ここは、ラフマニノフの『ピアノ協奏曲第二番』第一楽章のモチーフとも共通する、非常に雄大な展開部である。やがて、曲は全休止の後、前半に提示された動機が異なる楽器で繰り返された後、ゆっくりとたおやかに流れ、最後部でもう一度大きく感動的な盛り上がりを見せると共に、次第に静かに収束して閉じられる。

この楽章における“ロシアン・メランコリック・スウィート”の神髄は、一言で言うなら“平穏の中の情熱”であろう。『ピアノ協奏曲第二番』は人々に熱狂的に迎えられたが、最初の交響曲の失敗から立ち直っていない中、ラフマニノフは『交響曲第二番』に着手した。彼の心底には、交響曲を作曲することに対する不安や怯えがあったに違いない。だが、この作品の第三楽章に流れるテーマとして私が感じるのは、静かに沸き上る情熱と希望、そして、生に対する大らかな肯定である。ダーリ博士の催眠療法の成果が顕著であったからかも知れないが、この楽章には、ラフマニノフがかつて鬱状態にあったとは思えないほどの前向きな趣が感じられる。ラフマニノフは、やはり『ピアノ協奏曲第二番』の成功により、その創作に対する生涯の道標を見つけたのではないだろうか。

忘れられないほどに美しい旋律を裏付けるこれらの肯定的な要素に、人々がこの交響曲の第三楽章に惹き付けられる理由を見つけることができる。その影響力の強さから、この第三楽章も、ラフマニノフの傑作『ピアノ協奏曲第二番』と共に、様々なジャンルの音楽に引用されている。その中で最も有名なのが、冒頭のエピソードで紹介した、エリック・カルメン(※11)の『Never Gonna Fall in Love Again』(※12)であろう。1976年のこの曲は、日本では『恋にノータッチ』というタイトル(少々安直なネーミングであるが)でリリースされている。

■ 長大な原作の発見とアンドレ・プレヴィン(※13)の演奏

ラフマニノフ自身の指揮により、サンクト・ペテルブルグのマリインスキー劇場で初演された『交響曲第二番』は、前作の交響曲とは全く異なり、熱狂的な称賛をもって迎えられた。この成功によって、ラフマニノフは彼の『ピアノ協奏曲第二番』に引き続き、二回目の“グリンカ賞”を受賞。そして、ようやく自らを、真に尊敬に値する作曲家と認めることができるようになった。それと言うのも、『ピアノ協奏曲第二番』の初演は成功裡に終わったものの、彼はまだ交響曲の世界では成功を成し遂げておらず、『交響曲第二番』の第一稿は全く気に入らないものだったからである。この意味で、この『交響曲第二番』は、長い精神的な苦悩の果てに辿り着いた、ラフマニノフの創作における到達点であり、ピアニストであり指揮者でもあった彼の、音楽活動の頂点を極めた記念すべき作品である。

半面、ラフマニノフが交響曲での復活を賭け、渾身の力を賭けて作曲しただけに、『交響曲第二番』はその長大さが問題になった。ラフマニノフ自身もそれを認め、演奏会での便宜のために、何と100小節を超える大幅な削除を行い、大胆な短縮版を登場させたのである。それ以後、短縮されたことが原因か否かは知る由もないが、この交響曲は一時人々から忘れ去られてしまったかのように、演奏会で取り上げられることが少なくなってしまった。それを、再び世界的に有名にした演奏が、アンドレ・プレヴィン指揮のロンドン交響楽団の演奏である。

1967年、指揮者としてロンドン交響楽団を率いてロンドンデビューを果たしたプレヴィンが、その演目に選んだのが『交響曲第二番』であり、訪れた国々で最も反響が大きかったのもこの交響曲であった。この演奏会に先立って訪れたモスクワで、プレヴィンは当時のレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の伝説的な指揮者であった、エフゲニー・ムラヴィンスキー(※14)から『交響曲第二番』の原典版の楽譜を手渡された。ロンドン公演で演奏した『交響曲第二番』は短縮版であったが、それ以後、プレヴィンはこの交響曲を元の形で演奏すべく研究を重ね、1973年1月、同じロンドン交響楽団とこの交響曲の完全版を世界で初めて録音している。今我々がこの交響曲、特にその第三楽章を現在の形で鑑賞できるのは、アンドレ・プレヴィンという逸材によるところが大きいのである。

<アンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団、セルゲイ・ラフマニノフ『交響曲第二番』より「第三楽章」: ノーカット原典版として初めて録音された歴史的演奏。アンドレ・プレヴィン指揮、ロンドン交響楽団の演奏は、あたかも管弦楽が甘く切ない調べをゆっくりとしたテンポ歌い上げるかのような、この上なき美しい名演奏である。また、映像にラフマニノフの様々な表情が映し出され、この類稀な作曲家と共に遠い過去を旅をしているかのような錯覚を覚える。大変貴重な動画である。>

※ここからアイデアニュース有料会員(月額300円)限定部分です。ラフマニノフの『交響曲第二番』以降の生涯と、“ロシアン・メランコリック・スウィート”が形を変え、ショスタコーヴィチらの旋律によって、その命脈を繋いでいったことについて、説明しています。

<有料会員限定部分の小見出し>

■ ロマン派の響きを基調とした作品に固執した“遅れてきたロマン派”

■ 悲しみが深ければ深い程、転化された甘い旋律が名曲となる

■ “ロシアン・メランコリック・スウィート”を引き継ぐもの-『ショスタコーヴィチ交響曲第五番』

■ 極めて私的な苦悩から、国家の政治や社会体制と創作との間の苦悩へ

音楽さむねいる 関連記事:

⇒すべて見る

※ここから有料会員限定部分です。

■ ロマン派の響きを基調とした作品に固執した“遅れてきたロマン派”

同世代のスクリャービン(※15)やシェーンベルグ(※16)が、新しい話法として無調性音楽を推進していくのに対して、ラフマニノフは時代に背を向けたかのように、あくまでもロマン派の響きを基調とした作品に固執した。当時の人々は、いずれラフマニノフの大衆人気は長続きせず、やがて飽きられるであろうと噂した。それゆえ、口さがない人々は彼のことを“遅れてきたロマン派”などと評するが、今世紀に入っても彼の作品は高い人気を保ち、この『交響曲第二番』、特にその第三楽章は数多の脚光を浴び続けているのである。

この後、ラフマニノフの創作活動は次第に終息していく。この頃の彼の作品の中で比較的大きなものでは、1909年の『ピアノ協奏曲第三番』と1927年の『ピアノ協奏曲第四番』、1936年の『交響曲第三番』がある。またその他有名なところでは、1913年の『合唱協奏曲 鐘』と1934年の『パガニーニの主題による狂詩曲』等、数えられる程度である。

ラフマニノフはその後、1917年の十月革命の後、演奏旅行に出かけたまま二度と祖国には戻らず、1918年には戦争への危機感からアメリカに渡り、ナチス・ドイツの轍(わだち)の音を遠くに聞きながら、1943年3月23日、ロス・アンジェルスにて没した。69歳の生涯であった。

■ 悲しみが深ければ深い程、転化された甘い旋律が名曲となる

理由や背景は異なるにせよ、ラフマニノフもバラキレフやチャイコフスキーと同じく、精神的な問題によるスランプに陥り、そこから這い上がって行く過程において、あるいは、這い上がった結果、音楽史上比類なき名曲を生み出したのは単なる偶然だろうか。いや、そうは思えない。人は誰しも悲しみに打ちひしがれた時、そして、その悲しみが深ければ深い程、精神と肉体がこれ以上の苦痛に耐えきれなくなるのを防ぐため、それを受容する神経が機能を停止=麻痺し、悲しみを別の感情に転化する作用が働くのかもしれない。

ここに紹介した三人の作曲家の作品は、まさにこの作用により完成されたものだと思えるのである。彼らの深い悲しみは、その作品において仄かに香る如き甘い旋律に転化され、それはあたかも、ロシアの遠い平原の遥か彼方から風に乗って聞こえて来る、郷愁を誘う呼び声のようでもある。彼らの祖国ロシアの大地は、彼らの悲しみや苦しみを抱擁し、解放するに十分に雄大である分、彼らの曲にも、それぞれが背負った壮大なドラマがその基底に存在する。私の言う“ロシアン・メランコリック・スウィート”とは、このようなドラマが織りなす情調のことである。

■ “ロシアン・メランコリック・スウィート”を引き継ぐもの-『ショスタコーヴィチ交響曲第五番』

時代が下ると、“ロシアン・メランコリック・スウィート”の系譜は形を変え、ストラヴィンスキー(※17)の『火の鳥』の「王女たちのロンド=ホロヴォード」(1910年原典版、1911年版組曲、1919年版組曲、1945年版組曲)(※18)やショスタコーヴィチの『交響曲第五番』第三楽章“ラルゴ”などにその旋律を潜伏させ、その命脈を繋いでいく。“形を変え”というのは、機能和声によるロマン派的な“ロシアン・メランコリック・スウィート”は影を潜め、次第にソヴィエトの独裁政権下における創作の難しさが際立ってくることを指す。

<ロリン・マゼール指揮クリーブランド管弦楽団演奏、ショスタコーヴィチ『交響曲第五番』より「第三楽章」>

国外に活動の場を求めたストラヴィンスキーとは異なり、ソヴィエトで曲を作り続けたショスタコーヴィチの作品には、常にその困難が付きまとう。彼の曲に憑依した共産党政権への表面的な賛辞の陰には、ソヴィエトにおいて芸術を創作する上での、彼自身の苦悩や格闘の軌跡が隠蔽されていることは良く知られている。しかし、彼の作品のどの部分に彼のパーソナルな部分が潜んでいるかを読み説くことは、彼の著述や言行録等を入念に調べても極めて難しい。この意味で、彼の代表作『交響曲第五番』は、彼自身の芸術を生み出す苦悩と、ソヴィエト共産党の“体制的な”芸術との葛藤が見え隠れする稀な例だと言えよう。

ショスタコーヴィチの『交響曲第五番』は、ラフマニノフの『ピアノ協奏曲第二番』の作曲と似た経緯で作曲されている。即ち、ラフマニノフ同様、ショスタコーヴィチも前作(ショスタコーヴィチの場合はオペラとバレエ曲)の評価が散々であったため、作曲家としての復活をこの大交響曲に託した。だが、ラフマニノフと事情が異なるのは、前作を批判したのが単なる音楽批評家や聴衆ではなく、ソヴィエト国家であったことである。当時のスターリン独裁政権下の共産党は、“反体制的な”人物を徹底的に洗い出し、収容所に送るか処刑し、大粛清を行っていた。それは、芸術家も例外ではなかった。前衛的な作品や実験的な作品は批判の対象となり、その作家たちも次々に“処分”された。ショスタコーヴィチの困難は、音楽家としての評価や名誉をかけた復活云々などという甘いものではなく、まさに生き残るためには、『交響曲第五番』を失敗するわけにはいかなかったのである。

この作品は、それまでの作品に比べると明暗の対比が鮮明で、比較的平易な構成が特徴である。特に、静謐な第三楽章から爆発的な最終楽章への移行と、圧倒的な迫力で迫るフィナーレが、社会主義の勝利を高らかに宣言しているかのような印象を与える。初演では、聴衆が熱狂的な喝采をもってこの曲を迎え、嵐のようなスタンディング・オペーションが長らく止むことはなかったという。共産党もこの作品を公式に歓迎し、ショスタコーヴィチは命をぎりぎりのところでつなぎとめることに成功したのである。

■極めて私的な苦悩から、国家の政治や社会体制と創作との間の苦悩へ

このように書くと、『交響曲第五番』は体制に迎合した官製交響曲のような印象を持つが、創作と政治の間で苦悩するショスタコーヴィチの真の姿を、私は第三楽章から確実に読み取るのである。ショスタコーヴィチの苦しみは、ラフマニノフやチャイコフスキーの悩みとは全く異質のものであり、ましてやバラキレフのそれとは異次元のものであると言えよう。そしてこの『交響曲第五番』第三楽章において、ショスタコーヴィチはこの作品に込めた真意を、“ロシアン・メランコリック・スウィート”ではなく、極めて深刻な“ロシアン・メランコリー”の旋律で擬態し、巧みに隠蔽したのではないだろうか。それは、ソヴィエト・ロシアにおける近現代の作曲家達の悲愴や苦悩が、極めて私的な次元から越境し、次第に国家の政治や社会体制に組み込まれていく軌跡と同一なのである。

※1 Sergei Rachmaninov (1873年4月1日-1943年3月28日)

※2 Dimitrii Shostakovich (1906年9月25日-1975年8月9日)

※3 日露戦争のさなか1905年の1月9日の日曜日、プチロフ金属機械工場に勤務する労働者4名が解雇されたことを発端とし、労働者の待遇改善等を皇帝ニコライ2世に訴えるべく、ロシア正教会の司祭であったゲオルギー・ガボン神父によって主導された請願行進に警備兵が発砲し、数千人の死者が出た事件。これにより、皇帝ニコライ2世は十月宣言を発布し、国会の解説と基本的人権の付与を約束した。また、一方で共産主義運動が高まるきっかけとなり、最終的には1917年の十月革命(ソヴィエト革命)へと発展していく。

※4 1859年に、作曲家でピアニストのアントン・ルービンシュタインと弟のニコライ・ルービンシュタイン兄弟により設立された音楽結社。ロシアの音楽教育や音楽文化の発展を目指した。

※5 Samuel Barber (1910年3月9日-1981年1月23日)、アメリカの作曲家

※6 レナード・バーンスタイン指揮ロサンゼルス・フィルハーモニック管弦楽団演奏、サミュエル・バーバー『弦楽のためのアダージョ』

※7 Remo Giazotto (1910年9月4日-1998年8月26日)、イタリアの音楽学者、音楽評論家

※8 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団演奏、レモ・ジャゾット『アダージョ ト短調』

※9 Gustav Mahler (1860年7月7日-1911年5月18日)、ボヘミアで生まれ、ウィーンで活躍した指揮者、作曲家。ウィーン宮廷歌劇場 (現ウィーン国立歌劇場) 音楽監督

※10 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団演奏、グスタフ・マーラー『交響曲第五番』より「第四楽章」

※11 Eric Carmen (1949年8月11日-)、アメリカの歌手

※12 エリック・カルメン『恋にノータッチ(Never Gonna Fall in Love Again)』

※13 Andre Previn (1929年4月6日-)、ドイツ生でまれ、アメリカで市民権を得た音楽家。守備範囲は広く、10代からジャズ・ピアニストとして楽団に所属し、映画音楽や純音楽の作曲家、指揮者として活躍。ロンドン交響楽団桂冠指揮者、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者、NHK交響楽団首席客演指揮者等を歴任。現代最も著名な指揮者の一人である。

※14 Evgeny Mravinsky (1903年6月4日-1988年1月19日)、20世紀を代表するソヴィエト連邦の指揮者。当時ソヴィエト連邦及び東欧最高のオーケストラと評された、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団を50年に渡り率いる。

※15 Alexandre Scrianine (1872年1月6日-1915年4月27日)、ロシアの作曲家。代表作に管弦楽曲『法悦の時』や『ピアノソナタ1番-10番』があり、現代音楽の先駆者の一人として認められている。

※16 Arnold Schonberg (1874年9月13日-1951年7月13日)、オーストリアの作曲家、指揮者。十二音技法の確立者として知られる。代表作に管弦楽曲『浄夜』、オペラ『モーゼとアロン』等がある。

※17 Igor Stravinsky (1882年6月17日-1971年4月6日)、20世紀を代表するロシアの作曲家。三大バレエ曲である『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』が有名。

※18 ピエール・ブレーズ指揮シカゴ交響楽団演奏、イーゴル・ストラヴィンスキー『火の鳥(1910年全曲版)』より「王女たちのロンド=ホロヴォード」

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA