音楽さむねいる:(15)音楽と花 (1)時代によって異なる「花」の意味と重要度

Koichi Kagawaの 音楽さむねいる
連載:音楽さむねいる(15)

讃美歌2-192『シャロンの花』(Jesus, rose of Sharon)(1922年)
アイダ・グィレイ作詞、チャールズ・ガブリエル作曲(※1)

組曲『ロミオとジュリエット』より第二番「モンターギュー家とキャピュレット家」(1936年)
バレエ音楽『ロミオとジュリエット』より「バルコニーの場」(1936年)
セルゲイ・プロコフィエフ作曲(※2)、

劇付随音楽『ハムレット』より「オフィーリアの情景」(1891年)
ピョートル・チャイコフスキー作曲

Koichi Kagawaの 音楽さむねいる

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■ 花を題名に持つクラシック曲の少なさ

ふと思ったことがある、クラシック音楽の題名に、花の名前がついたものがどれだけあるのだろうか、と。いろいろ調べてみたところ、古今東西星の数ほどある作品の中で、花という語を題名にしている曲は私の予想に反して少なく、その中でも特定の花の名を持つ曲は数えるほどであった。この結果については、私の浅学に加え、調査方法の脆弱さに帰するところ大であろうが、それは読者のご指摘を待つとして、その中でも比較的有名な作品を敢えて挙げると以下の通りであった。

1. ピョートル・チャイコフスキー、バレエ『くるみ割り人形』より「花のワルツ」

2. リヒャルト・シュトラウス、オペラ『ばらの騎士』

3. 伝ルイ13世(またはヘンリー・ギース)、宮廷音楽『アマリリス』

4. フランツ・シューベルト、歌曲『野ばら』

5. ジュゼッペ・ベルディ、オペラ『椿姫』

6. ロベルト・シューマン、ピアノ曲『花の曲』

7. ロベルト・シューマン、歌曲『ミルテの花』

8. ヨハン・シュトラウス2世、ワルツ『南国のバラ』

9. ジャコモ・プッチーニ、室内楽曲『菊』

10. ラルフ・ヴォーン・ウイリアムス、『5つの宗教的歌曲』より「私は花を用意した」

11. セルゲイ・プロコフィエフ、バレエ音楽『石の花』

12. ジョルジュ・ビゼー、オペラ『カルメン』より「花の歌」

2、3、4、5、7、8、9は特定の花の名前がついているもの。それ以外は、一般的な呼称としての“花”である(11の『石の花』は民話による)。もちろんこれが全部ではないが、その少なさに意表を突かれた思いがする。

一方、日本の歌謡曲では状況がうって変わり、特定の花の名前がついた曲は枚挙にいとまがない。私が今思い出すだけでも、『くちなしの花』、『ばらが咲いた』、『百万本のバラ』、『寒椿』、『同期の桜』、『シクラメンのかほり』、『さざんかの宿』、『すみれの花咲く頃』、『桜三月散歩道』、『ひなげしの花』、『コスモス街道』、『アンコ椿は恋の花』、『秋桜』、『夜桜お七』、『おしろい花』、『曼珠沙華』等々。松田聖子に至っては、一人の持ち歌の中で花の名前が題名にある歌が非常に多く、『赤いスイトピー』、『花一色』、『はなびら』、『旅立ちはフリージア』、『ひまわりの丘』、『薔薇のように咲いて 桜のように散って』という具合である。

本稿は、花にまつわる曲名の数から、西洋のクラシック音楽と日本の歌謡曲の違いを明らかにするなどという大それたものではない。花の持つ意味やその重要度は時代によって異なり、そのことが音楽にも影響を及ぼすという仮定を基に、人々の花に対する接し方の歴史を少しばかり逍遥し、花を題材にした西洋と日本の音楽を俯瞰してみたいと考えたものである。

■ 人々が花に寄せる想い-古代エジプト時代

言うまでもなく、咲き誇る花は人々の心を和ませると共に巡り来る季節を象徴し、生きる喜びを彩る存在である。また、神に対しては花を手向け、死者に対しても花を供えて供養する時、花は霊的な役割を担う。花は神に対する祝福の化身であり、富や権力の象徴でもある他、死者に向けるメッセージ性の強いものであったことが知られており、古来より人々が花に寄せるそのような想いは、さまざまな芸術や生活様式によって辿ることができる。

例えば、古代エジプトにおいて、ファラオの絶大なる権力の象徴である王墓には、花を模ったレリーフや彩色壁画が施され、その中には、蓮の花輪を頭に頂いた古代エジプト人が、神に祈りを捧げているような図柄が存在する。蓮の花は数々のレリーフにも描かれており、その花の力強い生命力が、古代エジプト人の死生観や宗教観に大いに影響を与えたことが伺える。

また、有名なところでは、ツタンカーメン王の棺に供えられたヤグルマギク(異説あり)の花束がある。この花束は、王妃アンケセナーメンが、ツタンカーメンの死を悼んで棺に入れたものだという説もあり、王の死から三千年を経た今でも、カイロ考古学博物館でその姿を留めている。これは、花に寄せる感情は古代も今も変わらない証左であり、心動かされる。

■ 人々が花に寄せる想い-聖書の時代

古代エジプトから時代が下った地中海東岸。この地域で生まれた聖書の世界観にも、数々の花が登場する。イエスがガラリア湖畔で行った説教(“山上の垂訓”)に出て来る野の花のメタファー(マタイによる福音書6章)は、全ての人々は神の恩寵を受けており、それゆえ、謙譲であることの尊さを、花に例えて説いている有名なくだりである。下に引用してみる。

なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。(28節)しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(29節)今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。(30節)

(日本聖書協会訳)

ここでは野の花が何を指すのかが示されておらず、特定の花のイメージをこの文章に結び付けることはできない。ただ、英訳では“lilies of the field”となっており、直訳ではユリ、実際はアネモネであるという解釈が有力であるとのこと。(※3)

旧約聖書では具体的な花の名前が登場する箇所がいくつかある。特に顕著なのが、アーモンド(あめんどう)、ユリ、ザクロ、イチジク、ブドウである。幾つか例をひいてみよう。

<アーモンド>

あめんどうの花の形をした三つの萼(がく-読み方Koichi Kagawa)が、それぞれ節と花をもって一つの枝にあり、また、あめんどうの花の形をした三つの萼が、それぞれ節と花をもってほかの枝にあるようにし、燭台から出る六つの枝を、みなそのようにしなければならない。(出エジプト記25章33節)また、燭台の幹には、あめんどうの花の形をした四つの萼を付け、その萼にはそれぞれ節と花をもたせなさい。(同34節)

<ユリ>

わたしはシャロンのばら、谷のゆりです。(雅歌2章1節)おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは、いばらの中にゆりの花があるようだ。(同2節)

わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの。彼はゆりの花の中で、その群れを養っている。(同16節)

そのほおは、かんばしい花の床のように、かおりを放ち、そのくちびるは、ゆりの花のようで、没薬の液をしたたらす。(同5章13節)

<ザクロ・ブドウ・イチジク>

いちじくの木はその実を結び、ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ。わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。(雅歌2章13節)

わたしは谷の花を見、ぶどうが芽ざしたか、ざくろの花が咲いたかを見ようと、くるみの園へ下っていった。(同6章11節)

わたしたちは早く起き、ぶどう園へ行って、ぶどうの木が芽ざしたか、ぶどうの花が咲いたか、ざくろが花咲いたかを見ましょう。その所で、わたしはわが愛をあなたに与えます。(同7章12節)

(以上日本聖書協会訳)

アーモンドは目覚めの木と呼ばれ、甦りを表わすと共にイスラエルの導きのしるしであり、メノラーと呼ばれる七つの枝を持つ燭台に模られている。ユリは聖母の象徴で復活のシンボル。ザクロは実の中に粒が多くあり、繁栄の象徴として旧約聖書に数多く出てくる植物で、イスラエルの国のイメージとして使われることが多い。ブドウは房がたくさん実ることから生命力と豊穣の象徴であるとされ、聖書では最も頻繁に登場する植物である。イチジクは、有名なアダムとイブの記述として旧約聖書で最初に登場する植物(創世記3章1-7節)で、ザクロ、ブドウと同様に豊穣と繁栄を表すもの。

聖書では、これらの植物の果実や木の方が、花そのものよりも多く取り上げられているのが特徴である。それは、日常生活や信仰においては、食料や薬としての果実や樹皮に重きが置かれたため、花に感情を託し、それを媒介にした思想を尊ぶ精神的風土が十分に醸成されていなかったためではないかと思われる。また、ユリにせよアネモネにせよ、“山上の垂訓”では“野の花”と一括して表現されるように、個々の花を指す聖書の名詞には限界があり、ごく限られた花の種類しか数えることができない。その理由は、古代エジプトや中東地域における植物被覆(ひふく)の少なさに加えて、花の種類を表現する言語そのものが未発達であったためではないだろうか。

上記雅歌2章1節に登場した、シャロンの花を歌った讃美歌を紹介しよう。シャロンの花とは白い花をつけるムクゲのことであり、イエス・キリストの愛称でもある。また、理想郷に咲き誇る花のことを指し、純潔を意味する。

チャールズ・H. ガブリエル作曲、讃美歌2-192『シャロンの花』(Jesus, rose of Sharon)

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■ シェイクスピアの中世イギリス-ロミオとジュリエットの“バラ”

■ シェイクスピアの中世イギリス-ハムレットの花言葉

※1 Charles H. Gabriel (1856年8月18日-1932年9月14日), アメリカの宗教音楽の作詞家、作曲家。生涯に7,000から8,000に及ぶゴスペル曲を作詞・作曲した。

※2 Sergei Prokofiev (1891年4月23日-1953年3月5日), ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。ジャンルを問わず、数多くの名作を残した。特に、自身がピアニストであることからピアノ作品に傑作が多い。

※3 関西学院大学吉岡ベルスクエア「吉岡記念館聖書の植物」参照。http://www.kwansei.ac.jp/yoshioka/yoshioka_000703.html

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■ シェイクスピアの中世イギリス-ロミオとジュリエットの“バラ”

時代は更に下り、シェイクスピアの生きたイギリス。エリザベス一世の統治したチューダー朝では、貴族たちは世界中から珍しい花を輸入することに熱心であった。そして、そのような花を用いたハーブやポプリ作りが流行し、造園が幅広く彼らの財力を誇示するための具となった。また、花に象徴的な意味を託して間接的な感情表現や意思の伝達を試み、あるいは道徳的な教示をほのめかすために花言葉が広く用いられるなど、花をめぐる精神的な文化は急速に発達していった。

シェイクスピアの代表作『ロミオとジュリエット』には、花が象徴的な役割を果たす場面がある。第二幕の有名なバルコニーの場で、ジュリエットがロミオに向かい、“自分の家と敵対するモンテーギュの名前を捨て、父親との縁を切るなら、自分もキャピュレットという名家の名前を捨てる”と迫るシーンがそれである。その時にジュリエットが言うセリフは、バラに託したロミオへの力強い想いであり、今でも人々の心を打つ。

What’s in a name? that which we call a roe

By any other name would smell as sweet.

名前など意味がないわ。バラというものは、他のどんな名前で呼んでも同じように甘く香るものよ

(Koichi Kagawa訳)

この場面をはじめ、シェイクスピアの作品に数多登場するバラは、その華麗さから、ランカスター家の赤バラ、ヨーク家の白バラという風に、王家や貴族の紋章に用いられており、15世紀から16世紀のイギリスを象徴する花であったようだ。

ロミオとジュリエットでよく引き合いに出されるのが、プロコフィエフ作曲のバレエ音楽『ロミオとジュリエット』より「モンターギュー家とキャピュレット家」の場面であろう。テレビのバラエティ番組などで、深刻な状況に陥ったことを演出する場合に使われることが多いので、“あ、あの音楽か”とお馴染みの方も多いであろう。

セルゲイ・プロコフィエフ作曲、組曲『ロミオとジュリエット』より第二番「モンターギュー家とキャピュレット家」:The Royal Stockholm Philharmonic Orchestra, conducted by Temirkanov

では、有名なバルコニーのシーンはどのように表現されているであろうか?バラの香りが漂ってくるような甘い調べが、いかにもロシアの作曲家らしく情緒的で美しい。また、バラに託した自らの強い決意が見事に表現されており、ロミオとジュリエットの音楽としては、やはりプロコフィエフのものは秀逸である。

セルゲイ・プロコフィエフ作曲、バレエ音楽『ロミオとジュリエット』より「バルコニーの場」:Czecho -Slovak State Philharmonic Orchestra, conducted by Andrew Mogrelia

■ シェイクスピアの中世イギリス-ハムレットの花言葉

また、有名な『ハムレット』第4幕5場では、狂ったオフィーリアが、宮廷で人々に花を配るシーンが印象的である。これらの花には、それぞれ花言葉が付されており、花を手渡す相手に対する象徴的な意味を持っている。兄に手渡したローズマリーとパンジーは、それぞれ“私のいとおしい人”、“想い”であり、狂気のあまり、オフィーリアはハムレットと兄とを倒錯していることが表現されている。クロ―ディアス王に贈ったフェンネルは、ハムレットの父であり、かつクローディアス王の兄である前王を毒殺した“蛇の毒”を。また、オダマキは、クローディアス王が兄王の未亡人である義姉と結婚したという“不義密通”を象徴している。ハムレットの母であり、現王妃のガートルードには、“悔い”を表すヘンルーダを手渡し、“不実”を意味するデイジーを取り出して見せる。

また、第4幕7場面では、ガートルードが語るオフィーリアの死に、キンポウゲ、イラクサ、デイジー、ランで作った花輪が登場する。オフィーリアがその花輪を柳の枝にかけようとしたところ枝が折れ、オフィーリアは花輪ごと川に落ちる。そして、自分に起きた災難を知らぬかのように、オフィーリアは古歌を歌いながら水底に沈んで行く。文学史上最も詩的な死を描いたと言われるこの場面は、何人もの画家の描くところとなった(※4)。その中で最も有名な作品は、その後の『ハムレット』の情景に大きな影響を与えた、ジョン・エヴァレット・ミレイの『オフィーリア』であろう。画中に描かれた草木は、オフィーリアの死にまつわる物語を象徴している。例えば、ヤナギは見捨てられた愛、イラクサは痛み、ヒナギクは無垢、パンジーは虚しい愛、首飾りのスミレは忠誠、純潔、夭折という具合に。

この、オフィーリアの死を表した音楽で是非とも取り上げたいのが、チャイコフスキー作曲の劇付随音楽『ハムレット』である。狂ったオフィーリアが、それぞれゆかりのある花々を手渡していくさまが目に浮かぶようである。オフィーリアの可憐で弱々しい姿がゆっくりとした調子で描かれ、やがて死に至る彼女の運命を予感させるような悲しい曲想である。この付随音楽は、1888年にチャイコフスキーが発表した幻想序曲『ハムレット』の主旋律を用いた短縮版で、残念ながら今日この曲が演奏される機会は滅多にない。

ピョートル・チャイコフスキー作曲、劇付随音楽『ハムレット』より「オフィーリアの情景」:Janis Kelly sings, the London Symphony Orchestra conducted by Geoffrey Simon

※4 主な作品に、フェルディナン・ドラクロワ「オフィーリアの死」、ジョージ・フレデリック・ワッツ「オフィーリア」、ヨゼフ・クロンハイム「オフィーリア」、アーサー・ヒューズ「オフィーリア」、ジェームズ・パーカー「オフィーリア」などがある。

音楽さむねいる(15) 百花繚乱・日本の花にまつわる音楽 ~音楽と花(2)~(12月20日掲載予定)に続く

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