痛みから生み出される真珠のような美しさ 「在日バイタルチェック」沖縄公演 | アイデアニュース

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痛みから生み出される真珠のような美しさ 「在日バイタルチェック」沖縄公演

筆者: 松中みどり 更新日: 2016年4月18日

2016年3月25日(金)、26日(土)、27日(日)の3日間にわたって、沖縄の各地で行われたひとり芝居「在日バイタルチェック」。その最終日である沖縄愛楽園交流会館での公演を見てきました。そのレポートです。

2016年3月沖縄上演のチラシ

2016年3月沖縄上演のチラシ

「在日バイタルチェック」に関しては、アイデアニュースのこちらの記事もご参照ください ⇒「100年の歴史を舞台上で凝縮 ひとり芝居「在日バイタルチェック」、沖縄で上演へ」 https://ideanews.jp/archives/17520

きむきがんさんのFacebookページや、劇団関係者の発信で、沖縄公演が初日、2日目と大成功をおさめていることを知り、心から嬉しく思いながら、人生2度目の沖縄に到着しました。お芝居が上演されるハンセン病療養所である「沖縄愛楽園」という場所にも興味があり、いろいろ勉強したいと思っていました。そして、あの大感動した舞台を「もう一度、愛楽園で見たい」と考えて、沖縄にやってきた次第です。

国立療養所「沖縄愛楽園」正門前=撮影・松中みどり

国立療養所「沖縄愛楽園」正門前=撮影・松中みどり

「沖縄愛楽園」は、沖縄県名護市の屋我地島(やがじしま)にある国立ハンセン病療養所です。屋我地島は、羽地(はねじ)内海に浮かぶ島で、以前は船で渡るしかなかったそうですが、現在は屋我地大橋で結ばれています。

屋我地大橋南側駐車場内にある「のがれの島」の碑=撮影・松中みどり

屋我地大橋南側駐車場内にある「のがれの島」の碑=撮影・松中みどり

沖縄に移住して以来、愛楽園をひんぱんに訪ね、入所者の方の中に「沖縄のお母さん」と呼ぶほど親しい方がいるという成田正雄さん(名護市瀬嵩にあるゲストハウス「海と風の宿」 ⇒http://www.sea-wind.com/ オーナー)が、愛楽園まで連れて行ってくださいました。

■「十坪でもいい、一坪でもいい。われわれが立っていて人が文句を言わぬ土地が欲しい」

屋我地島に入る前に、橋のたもとに「のがれの島」の碑があると、成田さんが車を停めて教えてくれました。

  • 魚ならば海にもぐりても生きん
  • 鳥ならば空に舞い上がりてものがれん
  • 五尺の体 住む所なしと
  • 青木師外十五名がのがれのがれて
  • 露命をつないだ無人島ジャルマ!
  • しかし水のない島は人間の永住に適しなかった
  • 屋我地大堂原は水豊か神の選び賜うた地上の天国であった。
  • 碑に向かって左方海上五百Mジャルマ島
  • 1976年6月25日 建之

昭和2年、徳島出身の青木恵哉(あおきけいさい)氏が沖縄にやってきます。自身もハンセン病であった青木氏は、洗礼を受けたのち、熊本にあるキリスト教系の回春病院に入院。沖縄の病者にキリスト教の福音を伝え、生きる希望を与えるために、回春病院院長ハンナ・リデル氏によって派遣されたのでした。

青木恵哉氏の像=撮影・松中みどり

青木恵哉氏の像=撮影・松中みどり

沖縄各地を伝道するうち、ハンセン病患者の窮状を見た青木氏は、掘っ立て小屋やガマに隠れ住む病者たちを救済します。しかし、療養所設置反対運動を受け、住んでいた小屋を焼かれるなどの事件がおきました。行き場を失った青木氏は、ハンセン病患者とともに、羽地内海にあるジャマル島にたどり着きます。ここは風葬に使われていたという、水も出ない無人島でした。「のがれの島」の碑に刻まれているのは、『魚であれば、鳥であったなら自由に生きていけるものを』という、当時のハンセン病患者の方々の思いなのです。

その後、「十坪でもいい、一坪でもいい。われわれが立っていて人が文句を言わぬ土地が欲しい」と願った青木氏は、屋我地大堂原(うふどうばる)に土地を購入。1938年(昭和13年)には、愛楽園の前身となる「国頭(くにがみ)愛楽園」が開園されました。それでもなお、近隣集落からの偏見、差別、迫害があったと愛楽園のリーフレットには書かれています。産みの苦しみの時代です。

「声なき子供たちの碑」=撮影・松中みどり

「声なき子供たちの碑」=撮影・松中みどり

「声なき子供たちの碑」は、愛楽園に2007年建立されたもので、ハンセン病患者に強いられた断種手術や中絶手術により、‟この世に声を上げたかったのにそれを許されなかった子供たち”の慰霊碑です。当時の愛楽園の園長であった山内和雄氏は、「耐え難い差別の数々は当時の医療関係者の人権意識の欠如が原因だった」と語っています。ハンセン病はらい菌によってひきおこされる感染症であり、遺伝ではありません。しかし、ハンセン病患者へのこうした手術は全国の療養所で行われていたといいます。

■太平洋戦争中に患者さんたちが掘った避難壕「早田壕」へ

愛楽園に残る「早田壕」=撮影・成田正雄さん

愛楽園に残る「早田壕」=撮影・成田正雄さん

太平洋戦争中に患者さんたちが掘った避難壕「早田壕」は、空襲に備えての壕で、913人の入所者全員が避難出来たほどの規模でした。鋭く固い隆起珊瑚を掘っていった神経麻痺のある患者さんたちは、怪我をしてもすぐに気づかずに、怪我が悪化して亡くなることが多かったと書いてありました。「働かざる者食うべからず」の号令で、作業に従事すれば食べ物がもらえると、おなかを空かせた患者さんたちが掘った壕について、以下のような説明文がありました。

    • 退避壕(早田壕)について
    • 太平洋戦争の最中、1943年(昭和18年)9月には、初代塩沼英之助園長時代に軍の指導で各寮前に無蓋の退避壕が60数ヶ所に作られていた。しかし、この壕は大変狭く長時間の爆撃には耐えられないことがわかり、1944年(昭和19年)3月、太平洋戦争の最中に2代目園長として赴任した早田皓園長は同年7月、防空のため、本格的な横穴式の壕の構築を開始。ハンセン病の為に手足が不自由な入所者までも、自らが入る壕を掘った。
    • つるはしやくわで硬い岩を崩す。手足の豆が破れ、傷になる。ハンセン病の症状で皮膚の感覚がないため、悪化するまで傷に気づかない。化膿しても薬がない。やがて肉が腐り、骨が腐れ、抜け落ちる。手足指の切断が相次ぐ、過労による症状の悪化で失明者も出た。2百人収容の壕を2本造り、空襲を逃れた。
    • 1945年(昭和20年)4月、島に上陸した米軍はハンセン病の施設と知り、直ちに攻撃を中止。それまでには爆弾約6百発、ロケット砲弾約4百発、艦砲約百発、機関銃弾約10万発を浴びた。
    • 擁壁工事に当たり、末永くこの事実をここに記す。
    • 1997年8月 沖縄愛楽園自治会
沖縄愛楽園の納骨堂で祈りを捧げる成田正雄さん=撮影・松中みどり

沖縄愛楽園の納骨堂で祈りを捧げる成田正雄さん=撮影・松中みどり

■「願わくば実際に施設へ足をお運びになることになれば幸いです」

沖縄愛楽園の園長、野村謙氏は、愛楽園ホームページ(⇒http://www.nhds.go.jp/~airakuen/site/top.html)にて、こう挨拶されています。

    • 『ハンセン病は、結核と同じ抗酸菌の仲間のらい菌によって引き起こされる感染症です。治療法も確立し、一般の医療施設で診察治療できるごく普通の疾患です。現在の日本ではほとんど発症しないと言っても良いでしょう。
    • ハンセン病療養所には、過去の偏見差別等から社会に復帰できずに今でも多くの方が生活の場として暮らしています。
    • (中略)
    • このホームページをご覧になり、多くの方が国立療養所沖縄愛楽園に関心を持ち、「ハンセン病の正しい理解」に役立てていただきたいと思います。願わくば実際に施設へ足をお運びになることになれば幸いです』

また、ホームページには「沖縄愛楽園の沿革」として以下のような変遷が記されています。

  • 昭和13年11月10日 沖縄県立国頭愛楽園開園
  • 昭和16年7月1日 国に移管される
  • 昭和21年4月24日 米軍民政府の所管となる
  • 昭和27年4月24日 琉球政府創立と同時に琉球政府の所管
  • 昭和47年5月15日 日本復帰に伴い厚生省に移管され、国立療養所沖縄愛楽園となる
  • 平成8年4月1日  「らい病予防法廃止に関する法律」の施行

これを見るだけで、沖縄のハンセン病患者の方々の複雑な歴史の一端を見る思いですが、ここにひとつ付け加えるとすると、以下の項目があがるでしょう。

2015年(平成27年)6月1日  ハンセン病に関する正しい知識の習得、沖縄における強制隔離政策の歴史を伝えることを目的とし、平和や人権を一緒に考える場「沖縄愛楽園交流会館」がグランドオープン

沖縄愛楽園交流会館=Facebookページより

沖縄愛楽園交流会館=Facebookページより

琉球新報の2015年5月30日付け記事「隔離政策 過ち伝える 沖縄愛楽園交流会館、1日から一般公開」(⇒http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-243564.html)も参照してください。

この、昨年オープンしたばかりの交流会館で、きがんさんのひとり芝居「在日バイタルチェック」が上演されたというわけです。

■在日の、沖縄の、ハンセン病の方々の痛みが核となって、真珠のように美しいものが生まれる

青木恵哉氏の残した俳句に次のようなものがあります。

  • 痛み経て真珠となりぬ貝の春
沖縄での3公演を無事に終えたきがんさんと仲間のみなさん(辺野古ゲート前にて)=撮影・松中みどり

沖縄での3公演を無事に終えたきがんさんと仲間のみなさん(辺野古ゲート前にて)=撮影・松中みどり

在日コリアンの、沖縄の人々の、ハンセン病の方々の抱える痛みは、真珠の核のようなものなのでしょうか。そこから生まれる美しいものが、眩しかったのです。きがんさんのひとり芝居を通して出会った誰もが、優しくあたたかく、手を結ぼうとしていた。支え合い、助け合いながら、ともに明るい方へ進もうとしていました。本当の春が来るまで、まだ気を抜くことはできないけれど、きがんさんと仲間のみなさんが見せてくれた「在日バイタルチェック」という優れた舞台が、100分で分かり合える喜びをくれました。

愛楽園での観劇後(左から成田正雄さん、島袋文子さん、筆者)=成田さんのFacebookページより

愛楽園での観劇後(左から成田正雄さん、島袋文子さん、筆者)=成田さんのFacebookページより

「在日バイタルチェック」が沖縄の各地で蒔いた種は、これから大きく実を結ぶと思います。特に「沖縄愛楽園」で観劇できたことは、私にとっても大変ありがたく素晴らしい経験でした。関係者のみなさんにお礼を言いたいです。お疲れ様でした。ありがとうございます。

辺野古にて=撮影・松中みどり

辺野古にて=撮影・松中みどり

あの、ゲート前でいつもみんなを励まし、歌声を響かせているきがんちゃんのやることならと、たくさんの人が進んで協力したのだと聞きました。3日間でおよそ500名が見たひとり芝居。「もう一度見たい!」、「次は必ず見たい!」、そんな熱い声も聞こえています。これからも、きがんちゃんと「在日バイタルチェック」から目が離せません。

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■ハンセン病患者の方々の歴史を伝える交流会館で演じた、在日コリアン100年の歴史は

■辺野古の仲間たちの応援が加わって、尼崎で見た90分とはひと味違うお芝居に

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<筆者プロフィール>松中みどり(まつなか・みどり) フィリピン支援ボランティア/英語講師/ライター 初めて行った外国がフィリピンで、以来かの国の人々の明るさ温かさに魅せられ、様々なNGOや支援活動に関わる。1994年からは山岳先住民アエタの教育支援主宰。コミュニケーションツールとしての英語を各地で教えている。動物好きの自称「ケモノバカ」。飼い猫は黒猫で親バカ度も加速中。 ⇒松中みどりさんの記事一覧はこちら

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