Koichi Kagawaさんの連載「音楽さむねいる」第6回は、「“オペラ座の怪人”と“ファントム” 2つのミュージカル」です。アンドリュー・ロイド・ウェーバー版とモーリー・イエストン版について触れた部分を「上」として、宝塚歌劇などについて触れた部分を「下」としたうえで、一挙掲載します。(アイデアニュース編集部)
『ファントム(Phantom)』(※1)
モーリー・イエストン(Maury Yeston:1945年10月23日-)(※2)作詞・作曲
推薦録音:『Phantom: The American Musical Sensation』(1992年Studio Cast)RCA Victor, Glory Crampton as Christine Daee, Paul Schoeffler as Count Philippe de Chandon
■今年30周年を迎える大ヒットミュージカル『オペラ座の怪人』
2011年10月1日、ロンドンのロイヤル・アルバートホールは異様な熱気に包まれていた。『オペラ座の怪人』25周年記念公演、“The Phantom of the Opera at the Royal Albert Hall”の会場。世界中に向けた中継で、キャスト全員と約5,000名の観客に迎えられ、作曲者のアンドリュー・ロイド・ウェーバー(※3、以後ALW)が、この大ヒット作への感慨を込めて記念のスピーチを述べる。彼自身によるオリジナル・メンバーの紹介に続き、万雷の拍手の中、初代クリスティーヌ・ダーエを演じ、その名を一躍世界中に知らしめたサラ・ブライトマン(Sarah Brightman)が登場。彼女はALWと一時結婚していたこともあり、余計に話題性のある演出となった。そして、彼女は5名の歴代の“怪人”を従え、「The Phantom of the Opera」を高らかに歌い上げる。
ラミン・カリムルーの怪人、シエラ・ボーゲスのクリスティーヌというキャスティングによるこの記念プロダクションは、2日間3回の限定公演で約15,000枚のチケットを売り上げ、最終日の10月2日の舞台はDVDとして記録・販売されている(※4)。いくら記念公演とはいえ、この大イベントはもうただ事ではない。
歴代のキャストによる熱演、スタッフの労力、そして熱狂的なファンの支持によって今日までロング・ランを続けている『オペラ座の怪人』は、1986年10月9日にロンドンのハー・マジェスティ劇場での初演の後、1988年にはウィーン、NYブロード・ウェイ、東京で立て続けに上演され、大成功を収めた。以後、数々の賞を受賞し、現在までほぼ毎年世界中のどこかの舞台に掛られ、ロング・ランの記録を更新しているこの作品は、ミュージカル史上で最も成功した例だと言える。このミュージカルは更に齢(よわい)を重ね、2016年の今年、初演から丁度30周年を迎える。ここ日本でも、劇団四季による舞台が今年で28年目、25回目の公演を行うなど、いまだにその人気はとどまるところを知らない。
■ミュージカルが大ヒットした3つの理由
『オペラ座の怪人』は、何故これほどまでに人々の心を捉えるのであろうか ?それには3つの理由が考えられる。まず、パリのオペラ座を舞台にしたガストン・ルルーの小説、『The Phantom of the Opera』のモチーフである。1909年に発表されたこの物語の骨子はゴシック・ロマンス(※5)であるが、その深部にはオペラ座の舞台で歌われる歌の“美”と、その地下深くに棲みついた怪人の“醜”との対照がある。その“美”と“醜”のせめぎ合いが、新人の歌い手であるクリスティーヌ・ダーエに対する、怪人の叶えられぬ愛という精神の渇望にシンクロナイズし、読者に哀しみと慈しみを共感させるものとなっている。
次の理由は、この物語が、歌を中心に展開することである。オペラ座で上演される演目に格別のこだわりを見せる怪人は“天使の声”の持ち主であり、クリスティーヌの歌の師でもある。ミュージカルによっては、怪人が、歌い手であった優しい母の面影をクリスティーヌに見出し、オペラ座のプリ・マドンナに育てていく執念が演出されることもある。いずれにしても、歌と音楽がこの物語を縦横に織りなす糸の役割を果たしている。舞台や映像では、当然のことながら、音楽の良し悪しがその成否を決定する重要な要素であることは言うまでもない。
そして、3つ目の理由が、この小説の舞台が1875年に落成したパリのオペラ座、通称ガルニエ宮ということである。オペラ座は、パリの黄金時代である所謂ベル・エポックを象徴する建造物の一つに数えられる。後にストラヴィンスキーの『火の鳥』やラヴェルの『ボレロ』が初演されたこの劇場は、パリで花開いたオペラやバレエの殿堂として、当時を生きた原作者ルルーに、新しい芸術の香りを感じさせたに違いない。加えて、作者自身が取材のために探訪したという、オペラ座の謎めいた地下の描写が、怪人をミステリアスな闇の存在に仕立て上げるのに大いに役立っている。豪華絢爛な表舞台の地下深くに眠るこの暗黒の宮殿は、読者の好奇心を掻き立てるに十分であろう。
そして、ひとたびこの物語がミュージカルとして潤色されると、その舞台はオペラ座の空間に同化し、観客は、怪人の棲むまさにその劇場に座し、この類稀なる悲劇を同時に目撃するのである。劇中劇を見るが如く企図された臨場感が、このミュージカルの醍醐味であり、人々を惹き付けてやまない理由なのである。
■複数存在する怪人物語と“彼”の名前
ところで、ルルーの小説を基にした映像・舞台作品の中でも最も有名なものは、何と言ってもALWの『オペラ座の怪人』であろう。しかし、同じ小説を題材したミュージカルは、このALW版の他に2作品が存在する。即ち、1976年初演のケン・ヒル版と1991年初演のモーリー・イエストン(以後MY)版である。前者はALW版と同じく、ルルーの原作の題名をそのまま採り、『オペラ座の怪人(The Phantom of the Opera)』としているのに対し、後者のタイトルは単に『ファントム(Phantom)』である。それは、MY版の初演に先立つ1986年、前述したようにALW版が初演され、大好評を得たことに対する差別化を図ったためである。
因みに、Wikipediaによれば、ルルーの小説を題材にした映画が9作品、テレビドラマが6作品存在する(※6)。そのいずれも、原作に忠実に『オペラ座の怪人(The Phantom of the Opera)』と題名を付けているため、それ以外をタイトルに冠しているのはMY版『ファントム(Phantom)』のみとなる。そもそもルルーは原作中で、主人公を“怪人”や“ファントム”と称することはなく、“奴の声(The Man’s Voice)”、“オペラの幽霊(the Opera Ghost)”、“天使の声(The Angel Voice)”(いずれもKoichi Kagawa訳)と呼び、そして、生まれた時の名前ではなく、たまたま偶然に名付けられた“エリック(Erik)”という名も与えている。
MY版での“ファントムは”、可算名詞の“Phantom”であり、通常冠詞“a”か“the”が語頭に付くはずだがそれがない。語感だけで言うと、それは“幻影”とか“幻想”といった、不加算的な名詞のニュアンスを持った単語である。MYがどのような意図で彼のミュージカルを命名したかは分からないが、MY版の『ファントム』は、ALW版のような“怪人”ではなく、“幻影”いった響きの方が当てはまる対象が演じる物語である。その理由について、以下説明を試みてみよう。
■『オペラ座の怪人』と『ファントム』-「オーヴァチュア」に見る違い
ALW版『オペラ座の怪人』との比較で、MY版の『ファントム』を一言で表現するなら、前者がロンドンやNYといった現代の大都市での上演を念頭に置いた、超娯楽大作のミュージカルであるのに対し、後者は19世紀にパリで発生したオペレッタの系統を汲むオーソドックスな歌劇作品である言えよう。それは、まず両者の冒頭を飾る「オーヴァチュア」(※7)を聴き比べてみるとよくわかる。
ALW版はその冒頭から、物語の象徴ともいうべきオペラ座のシャンデリアに、ロック調のおどろおどろしい音楽を合せることで、怪人の存在を暗示しつつ、物語の輪郭を描こうとしている。
それに対しMY版では、幕が上がる際に流れるこの「オーヴァチュア」が、物語の舞台であるオペラ座と、観客が今まさに座って上演を心待ちにしている劇場とを一体化する効果を生んでいる。MYの「オーヴァチュア」は、これから始まる物語の色調を表しているが、それはあくまでもパリの劇場にかかるオペレッタの幕開きの音楽であり、パリの空気を目一杯含んだ古風で軽快な序曲となっている。
■『ファントム』はパリの香りに満たされて~
ヒロイン、クリスティーヌ・ダーエの登場シーンも、ALW版とMY版では全く異なっている。オペラ座専属のバレエ団の一員であり、怪人から歌のレッスン受けているクリスティーヌが、リハーサルを突然キャンセルしたプリ・マドンナ、カルロッタの代役としてソロを見事に歌い上げるシーンが前者である。これに対して、MY版では、新しく作られたパリの歌を口ずさみながら、街行く人々に花を売る少女としてクリスティーヌは登場する。彼女の歌に惹かれたシャンドン伯爵は、彼がパトロンを務めるオペラ座で歌のレッスンを受けることを、クリスティーヌに奨める。
ここでクリスティーヌが歌う歌が、明るく軽快な「Melodie de Paris」(※8)である。
この曲は、文化と芸術の黄金期を迎えた、世紀末のパリの街角を包むエスプリに溢れている。この曲の基調となっている曲想は、シャンドン伯爵の紹介状を持ったクリスティーヌが初めてオペラ座に赴く際に歌われる、「Dressing for the Night」(※9)にも共通する天真爛漫さである。MYの『ファントム』は、やはりガストン・ルルーが呼吸したであろう、古き良き時代(ベル・エポック)のパリの空気を体中にまとって演じられるべき、パリを舞台にしたパリのミュージカルなのだ。
一方、『オペラ座の怪人』と『ファントム』双方に共通して描かれているのが、怪人=ファントムが見せる、美しい音楽に対する執念である。それをクリスティーヌの歌に託し、彼女をオペラ座のプリ・マドンナに育て上げようとするうちに、彼女に対する愛情の高まりを禁じ得なくなる怪人。しかし、己の醜さゆえ、素顔を晒して彼女と話すこともできない苦しさと、胸が突き上げられるような哀しみの情が彼の心を覆い、それがクリスティーヌ以外の登場人物に対する憎悪を生む素地となる。
■怪人の慟哭、闇の歌への誘い
ALW版で、怪人がクリスティーヌを、自分が暮らすオペラ座の地下宮殿に連れて行く際、二人によって歌われるのがこのミュージカルの有名な主題、「The Phantom of the Opera」(※10)である。クリスティーヌが秘かに敬い、歌を師事していた“音楽の天使(Angel of Music)”が目の前に現れ、陶酔状態に陥った彼女は、“そこにオペラ座の怪人がいる、私の心の中に!”と歌い、怪人は“そこにオペラ座の怪人がいる、お前の心の中に!”と歌で返す。
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そして、“音楽の王国”に着いたクリスティーヌを前に、その王国の主は、“目を閉じ、陽の光を忘れ、夜の闇が治める歌に耳を傾けろ”と誘う。そして、“今までの全てを忘れ、自分を解き放ち、私に仕え、私の音楽のために歌って欲しい”と歌う。暗闇の中から怪人が歌う「The Music of the Night」(※11)のこの甘美な調べは、ミュージカル史上屈指の名曲である。
しかし、クリスティーヌが王国の主の仮面を外そうとした瞬間、彼は怪物となり、自らの醜い姿を“地獄の業火に焼かれる化け物”と罵り、“そんな自分を直視し、想う勇気があるか”と尋ねる。それでも“怪物の後ろには、秘かに天国に憧れ、美に思いを抱く人間がいることを分かって欲しい”と嘆き歌う(※12)。
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■ファントムとクリスティーヌが抱く希望
■“You are Music”と“My True Love”のこの上なく美しい旋律
■母への追慕とクリスティーヌへの想い
■父との対話
■ファントムの幻影
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